2010-01-01から1年間の記事一覧

日朝修好通商条約は不平等なのか

経緯を無視する歴史記述。 梅田正巳著「近代日本の戦争」では明治9年(1876年)の日朝修好条規を「日本が外国と結ばされた条約を上回る不平等条約でした」と述べています。P59 前述の江華島事件のよく1876(明治9)年、日本は黒田清隆が全権大使となり…

インドネシアの軍政

軍政は悪だったのか? 大東亜戦争中、日本軍はインドネシアに軍政を敷きました。戦後、日本人は日本悪玉論を刷り込まれたので、「軍政」というと悪いイメージを持つでしょうし、村山談話にあるような「アジアの人を苦しめた」というアジア全域を指すかのよう…

あまりにも醜いNHKの尖閣デモ報道

人間どうなったら此処まで醜い報道ができるようになるのでしょうか。 NHKは16日20:45に尖閣デモの報道を行いました。3分の間のうち、中共の反日デモ約2分20秒も使い、そこから約10秒もこの「日本右翼」の文字を表示し続けたのです。その10…

神嘗祭

天皇陛下は祭祀王です。 10月17日は神嘗祭(かんなめさい・かんなめのまつり・かんにえのまつり)です。神宮(伊勢神宮)と宮中の祭礼です。最も清浄な召し上がりものを意味する「由貴大御饌(ゆきのおほみけ)」と称する新穀を供えます。神宮へは皇室か…

江華島事件に見られる背景抹殺手法

よく見られる歴史抹殺手法。 梅田正巳著「近代日本の戦争」では1875年(明治8年)の江華島事件(P47)について公式報告には飲み水を求めて入港したところ、突然砲撃され戦闘になったとしてあるが、実は報告書はあとで書き換えられたもので、飲み水が…

広島人が知ってはならない?歴史 〜 被爆したインドネシア人

劣情広島人が知ってはならない歴史。 昭和18年、「大東亜共栄圏を担う人材育成」のために南方特別留学生というミャンマー、インドネシア、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、フィリピン、タイから学生が来日します。この中にハッサン・ラハヤ氏というイ…

「アジア情勢」と「国家」が抜け落ちた台湾出兵に関する言及

日本は侵略される側だった。 梅田正巳著「近代日本の戦争」の台湾出兵の述べている箇所です。(P33) だいたい、事件(牡丹社事件)が起こったのは1871年11月、出兵したのは74年5月です。この間2年半もたっています。どうしてそうなったのか。ま…

漁船衝突ビデオに何が映っているのか

政府は何を隠しているのか。 漁船衝突ビデオが非公開となっていますが、ここまで固執するのはなぜでしょうか。 漁船衝突ビデオ 公開先延ばし・責任押し付け…政府、国民無視の対中配慮 産経ニュース 2010.10.8 23:55 沖縄・尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件の…

伊藤博文暗殺の真相は?

伊藤暗殺は安重根が犯人ではなかった。 日露戦争終了直後の明治38年(1905年)11月17日、日本と大韓帝国の保護条約の方針が発表されると、韓国統監府が設置されることになり、伊藤博文が初代統監に就任しました。この頃、韓国の民衆パワーは公称1…

今村均とスカルノ

日本と深い縁があるスカルノ元大統領。 大東亜戦争中、インドネシアは日本軍16軍がオランダら連合軍を打ち負かし、軍政を敷きました。このとき、インドネシア国民党の指導者、スカルノが政治犯としてスマトラ島のベンクルに流刑となっていました。そうする…

牡丹社事件、アサヒる?

アサヒりましたか? 梅田正巳著「近代日本の戦争」では1874年(明治6年)の台湾出兵について述べています。(P31)この中で牡丹社事件をあげています。牡丹社事件は宮古島の船が漂流して台湾に流れ着いて、原住民に54人が殺害される事件です。この…

やはりプレスコードは生きていた

GHQの呪縛から逃れられないマスコミ。 先週末に行われた反中デモは2700人が参加して大規模なデモになりましたが、日本のマスコミは報道しませんでした。 反中国デモ「報道せず」のなぜ 外国主要メディアは次々報道 J-CASTニュース 10月4日(月)20時52…

曖昧さに対して突っ込みを入れた梅田氏

プロが素人に対しての不可解なツッコミ。 梅田正巳著「近代日本の戦争」では田母神論文の「日本は相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない、というのは本当か」(P25)を取り上げて、それを検証する試みを行っています。 田母神論文より ア メ …

トアン、テレマカシ 〜 インドネシア

八紘一宇の精神。 大東亜戦争序盤の昭和17年(1942年)3月1日、日本軍はインドネシアのバンタム湾からジャワ島へ上陸します。しかし、道路を通ろうにも両脇のタマリンドという豆科植物の高い木々が爆破され路上に倒されており、自動車や馬はもちろん…

万歳、ありがとう 〜 インドネシア

インドネシアからみた大東亜戦争。 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃し、米英に宣戦布告。このときオランダは除外していましたが、オランダが12月10日に戦争状態であることを宣言。日本はスイスを通じて工作を行いましたが、オ…

オトポール事件

日本のシンドラー樋口 1936年(昭和11年) 11月 日独防共協定 1937年(昭和12年) 12月 第1回極東ユダヤ人大会 樋口、安江が出席 1938年(昭和13年) 1月 関東軍「現下ニ於ケル対猶太(ユダヤ)民族施策要領」を策定 3月 オトポール…

なぜプロが田母神氏批判本を書いたのか

プロがなぜ素人叩きのため出版までしたのか。 梅田正巳著「近代日本の戦争」はいわゆる「田母神論文」をターゲットにして書かれたものです。田母神氏はよく知られている通り、航空自衛隊の幕僚長だった人です。同氏が平成20年(2008年)にマンションや…

対華二十一カ条の要求の真相

対華二十一カ条は支那の自作自演。 私は第一次世界大戦中、日本は支那に対して「二十一カ条の要求」(1915年 大正4年 1月18日)というひどいことをした、と教えられました。世界大戦のドサクサに紛れて、支那にとって屈辱的な要求をした、日本は悪いことをした…

「近代日本の戦争」を読む

おすすめらしい。 以前、琉球新報の記事※1を見ていると梅田正巳著「近代日本の戦争」を推薦していました。いわゆる「田母神論文」の検証が「売り」のようです。有村悠※2というイラストレーター?の人がTB入れてきたので多分推奨しているのだろうと思い購…

日本に学んだ支那の人たち

支那語は日本製。 1905年、日本は日露戦争に勝利しました。この日露戦争の勝利は有色人種が狂気して喜びました。清国(シナ)の若者は大挙して日本に留学に押し寄せ、数万余にのぼりました。孫文(後、初代中華民国臨時大総統)はイギリスから東京に急行…

徳王の悲劇と内蒙古大虐殺

支那による蒙古人大虐殺があった。 昭和20年8月15日、日本の降伏により、内蒙古に危機が訪れます。日本の内蒙古駐留軍は武器、弾薬を蒙古軍に提供すると徳王に伝達しましたが、日本軍と蒙古軍の間には距離があり、支那共産党軍が既に分断しており無理な…

内蒙古の独立

蒙古も満州も支那ではない。 昭和16年(1941年)8月4日、内蒙古自治邦が成立。内蒙古の事実上の独立が行われました。万里の長城以北の西側は蒙古で現在の東北と呼ばれる地域が満州人の聖地でした。蒙古と満州は支那ではありません。 1911年、清…

秋季皇霊祭

ご先祖に感謝、天皇陛下に感謝しましょう。 秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」となっていますが、昭和22(1947年)までは秋季皇霊祭といいました。歴代天皇、皇族の霊が祭られている三殿の「皇霊殿」で行われるのが「皇霊祭」で一…

人を喰う支那人に喰われるな

支那人というものを歴史から学べ! 京都大学(京都帝国大学)教授東洋史学者、桑原 隲蔵(くわばら じつぞう、明治3年12月7日(1871年1月27日) - 1931年(昭和6年)5月24日)『支那人の食人肉風習』 「日支両国は唇歯(しんし)相倚る(あいよる)間柄で、…

満州事変は侵略ではない

満州事変は自警行為。 満州事変で日本は支那を侵略した・・・大方の人はこんな歴史を信じてしまっています。しかし、なぜ事変が勃発したかはしらないし、満州と支那が別の国であることも知らないでしょう。満州事変は関東軍による自警行為の発動であり、満州…

祖父から引き継いだもの

我々は本当の歴史を伝える義務がある。 戦後、日本人はGHQの政策により「日本は悪」「日本が侵略した」と刷り込まれました。検閲、焚書、真相箱や東京裁判・・・WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)といわれていますが、そういう…

聖徳太子の話

独立国家日本の誕生。 聖徳太子といえば「十七条の憲法」(604年)が思い浮かぶほか、一万円札でしょうか。子供の頃教わったのは「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を隋の皇帝におくって、格が下の日本が対等な文書を送ってきて激…

占守島からシベリアへ

占守の兵士はシベリアへ連れて行かれた。 終戦後の昭和20年8月17日深夜から千島列島最北端の占守島にソ連軍が上陸しました。迎え撃つ日本軍の中にわずかな航空兵力があり、海軍のほか陸軍・隼戦闘機がありました。3名の搭乗員がいました。爆装に向いて…

占守島の戦い

もし、占守で日本軍の奮戦がなかったら、北海道は・・・ 昭和20年8月17日、千島列島最北端の島、占守島(しゅむしゅとう)にソ連軍が上陸しました。もう戦争は終わっているはずです。「本日未明、敵は竹田浜一帯に上陸開始、目下激戦中、国籍不明・・・…

パーフェクト・ゲーム 〜 キスカ島

まさにパーフェクト。キスカ奇跡の撤退。 昭和18年(1943年)5月30日、アリューシャン列島のアッツ島の日本軍守備隊は玉砕しました。アッツ島より東(米国側)にあるキスカ島の5,300名の日本軍守備隊は孤立することになります。 キスカ島では…