広島人が知ってはならない?歴史 〜 被爆したインドネシア人

劣情広島人が知ってはならない歴史。


 昭和18年、大東亜共栄圏を担う人材育成」のために南方特別留学生というミャンマーインドネシア、マレーシア、シンガポールブルネイ、フィリピン、タイから学生が来日します。この中にハッサン・ラハヤ氏というインドネシアの学生がいました。ハッサンは東京で勉強した後に広島文理科大学(現在の広島大学)に派遣されます。そして昭和20年8月6日に被爆しました。

「その時、私は大学で理科の授業を受けていました。
 先生が、黒板に何か書こうとしていた時に、バーンと爆発があったのです。
 私は大学の教室にいたために、幸いにも原爆のあの光には当たりませんでした。
 外にいた人たちは、みなあの光に当たって、亡くなっていってしまいました。
 (中略)
 教室の窓ガラスは全部壊れて床に散乱していました。その散乱したガラスの破片をよけて、私と一緒に授業を受けていたアリフィン・ベイさんの二人は窓を飛び越えて外にでました」
 
 被爆したのは千田町ですね。ハッサン氏は元安川萬代橋のほとりの興南寮に下宿していましたが、それも倒壊しており、火災が迫ったので、川に飛び込んで火に巻かれることから逃れ助かっています。この興南寮跡には1993年に碑がたれられ、ハッサン氏が除幕式のときに皆の前でスピーチをしました。
 
 ハッサン氏は戦後、慶応大学に進学し、インドネシア帰国後、日本とインドネシアの親善協会を設立しています。また、インドネシアの国会議員を15年間務め、スハルト大統領の諮問機関の一つである最高諮問会議議員を5年勤めています。それから天皇陛下より旭日中綬賞が贈られています。
 
 スハルト大統領のことを少し書くと、この人はインドネシアの第二代大統領です。大東亜戦争のときは日本軍政下で組織されたPETAという郷土防衛義勇軍に加わり、日本の軍事訓練を受けています。日本敗戦後、オランダとの独立戦争でこのPETAが独立の原動力となりました。この独立戦争に元日本軍兵士が参加しており、スハルト大統領は来日するたびに、この元日本兵士に面会し、謝意を表してきました。名誉あるナラリア勲章を6名の日本人に贈っています。

 ハッサン氏は日本に留学する前には日本の軍政監部で仕事をしており、軍事調練は日本に留学してから受けており、このときに軍人精神を鍛えられたと述べています。インドネシアでは「サンパイ・マティ」(死ぬまでやる)という言葉があり、PETAでよく使われ、南方留学生もそういう気持ちで勉強していたといいます。ハッサン氏は日本から学んだもの、大東亜戦争についてこう述べています。

「私たちには、インドネシア人たるものはいつでも国のために命を捧げるという悲壮な思いがあるのです。それは今でも同じですよ。私たちはその思いがいかに重要であるかが身にしみてわかっているのです
 その様な思いというのは日本から受けた教えでもあったのです。日本の精神とか武士道、サムライという言葉は戦争中のインドネシアでは誰もが口にしていたのでした。
 私たちは日本の軍政化で独立とは与えられるものではなく自分たちで勝ち取るのだという意識に目覚めたのでした。私たちはもう、支配されたままでいる民族ではありませんでした。
 そして日本は、私たちにどのようにしたら独立を勝ち取ることができるかを、また、どのような苦しみを経なければ勝ち取れないかを教えてくれました。350年の抑圧の時代を経て、ついに私たちは祖国を取り戻そうと立ち上がり、祖先たちのすべての思いを果たしたのです」
 
「大きな目で見て、アジアの、大東亜の開放は日本が白人に対して戦ったから成し得たのだと私は思います。
 日本人が大東亜戦争をやらなければ、アジアの様々な国が今日のように独立してはいなかったでしょう。
 日本軍は、アジアから白人の勢力を追い払い、自分たちはとても白人には敵わないとあきらめていたアジアの民族に大きな感動と自らに対する自信とを与えてくれました」

 広島ではこの話はどれくらい語られているでしょうか。私は広島に居た頃、聞いたことがありませんでした。もし語られていても、せいぜい「南方特別留学生」というものが大東亜共栄圏という悪しきものの一環で実施され、原爆の犠牲になったインドネシア人がいた、という程度ではないでしょうか。
 


参考文献
 桜の花出版編集部「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実」
 「世界が愛した日本」四條たか子著
  
参考サイト
 興南寮跡・碑
   http://yutaka901.web.infoseek.co.jp/page2bx03.html

添付画像
 原爆投下前の市中央部。同心円の中心が爆心地。最も右側の川の下から2つ目が萬代橋。(PD)

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