オトポール事件

日本のシンドラー樋口


1936年(昭和11年)
   11月 日独防共協定
1937年(昭和12年)
   12月 第1回極東ユダヤ人大会 樋口、安江が出席
1938年(昭和13年)
    1月 関東軍「現下ニ於ケル対猶太(ユダヤ)民族施策要領」を策定
    3月 オトポール事件
   11月 ドイツで反ユダヤ主義暴動(水晶の夜)
   12月 五相会議 ユダヤ人対策要綱
1940年(昭和15年)
    7月 25日、杉原千畝 命のビザ発給を決断
       基本国策要領 「八紘一宇」が登場 26日閣議決定

 昭和13年(1938年)3月8日、満州西部の満州里駅の対岸に位置するソ連領オトポールにドイツで迫害を受けたユダヤ難民が押し寄せました。ソ連ユダヤ難民の受け入れを拒否していたので、難民は満州国への入国を希望します。しかし、満州国は日本とドイツの関係を気にして入国ビザの発給を拒否します。このときのハルビン特務機関長は樋口季一郎(ひぐち きいちろう)少将です。樋口はユダヤ協会と交流があり、極東ユダヤ人協会の会長、アブラハム・カウフマンと親しくしていました。カウフマンは樋口に難民の救済を訴えました。樋口は「人道上の問題」としてユダヤ難民の受け入れを独断で決め満州鉄道総裁の松岡洋右(後の外相)に特別列車の要請をします。現場では樋口の部下である安江仙弘が奔走しました。
 3月12日、ハルビン駅にユダヤの人々が到着します。そしてユダヤ難民たちは地元の商工クラブや学校へと収容され、そこで炊き出しを受けます。カウフマンの息子であるテオドル・カウフマンはこのときの光景を現場で見て、戦後、イスラエルで出版した著作の中で、樋口についてこう書き記しています。
 
「樋口は世界でもっとも公正な人物の一人であり、ユダヤ人にとって真の友人であったと考える」
 
 文頭の年表からすると、有名な杉原千畝の命のビザの話は、このオトポール事件の2年以上も後のことです。さらに日本はドイツの反ユダヤ暴動をうけて五相会議でユダヤ人を差別しないことを閣議決定していますが、オトポール事件はそれよりも前の出来事です。このときの樋口の決断は大変難しかったと思われます。樋口の娘、智恵子さん(当時4歳)は父親が特務機関に出勤するとき、いつもは運転手さんの運転で一緒に乗って、そのまま帰ってきていましたが、この事件のとき母親から「今日は行ってはダメ」「お父様がクビになる。日本に帰ることになるかもしれない」と荷物整理していたと覚えていると述べています。
 
 オトポールのユダヤ難民は2万人が押し寄せたという話がありますが、この数字は根拠がなく、この事件をきっかけにユダヤ難民救済のヒグチ・ルートが開通し、昭和16年ぐらいまでは有効であったといいます。難民の列車の手配を行った東亜旅行社(現・JTB)によると当初オトポールに押し寄せた難民は100〜200人。その後、続々とヒグチ・ルート目指してユダヤ難民がやってきて、昭和14年に551名、昭和15年に3,574名となっており、昭和16年の数は不明ですが、大体5,000人ぐらいではないでしょうか。

 樋口季一郎の独断は当然、問題になりました。ドイツからはヒトラーの腹心であるリッペントロップ独外相から、オットー駐日大使を通じて抗議が行われました。外務省、陸軍省でも樋口の独断を問題視する声が出て、ドイツからの抗議書は関東軍司令部へまわされます。樋口は関東軍指令植田謙吉大将に所信をしたためた文書を送ります。
 
「小官は小官のとった行為を決して間違ったものではないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない」

 ついで樋口は関東軍司令部に出頭し、東條英機参謀長と会います。
「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」

 東条英機は筋さえ通れば話のわかる人だったと樋口は回想しています。東條英機はドイツの抗議にたいして「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴しました。
 
 樋口季一郎と安江仙弘はユダヤ民族に貢献した人々の名を刻むゴールデンブックに名を連ねています。ゴールデンブックは献金記録簿兼栄誉をたたえるための仕組みのもので、樋口、安江の献金額は不明となっており、名前は極東ユダヤ人協会が記入したようです。東條英機ユダヤ人との交流がなかったため、記載されなかったと言われています。
 戦後の東京裁判ではソ連から樋口を戦犯として引き渡すよう要求がありました。しかし、これにユダヤ人たちが強硬に抗議し、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会がソ連の要求を拒否するよう米国防総省に強く訴えました。この動きが功を奏し樋口に対する戦犯引渡し要求は立ち消えになりました。もし東條英機の名がゴールデンブックに記載されていれば東京裁判はまったく様相が異なったものになっていたでしょう。

※日本は満州国に対して内面指導権を保持していた。




参考文献
 「指揮官の決断」早坂隆著
 「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著
参考サイト
 WikiPedia「基本国策要綱」「猶太人対策要綱」「水晶の夜」「杉原千畝」「日独防共協定」「河豚計画」

添付画像
 樋口季一郎(PD)
 
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オポトール事件 ユダヤ人を救った日本陸軍軍人
http://www.youtube.com/watch?v=xOLtUtHePAg

オポトール事件と書いてあるがオトポールの間違いと思われる。