2012-01-01から1年間の記事一覧

南京大虐殺のデタラメ証言とマスコミ

デタラメ証言あり、マスコミのウソ垂れ流しあり。そして国民は洗脳された。 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦がありました。第16師団(京都)歩兵第20連隊(福知山)中隊長だった森王琢(もりおう みがく)さんは平成4年(1992年)…

スマイスは南京大虐殺を見ていない

国際委員会のメンバーは南京大虐殺を見ていない。 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦があり、日本軍による南京占領後、南京大虐殺があったと言われてきました。このとき一般市民は安全区と言われる南京城内の一区画に避難しており、外国人メン…

江戸時代に来日した外国人は天皇をどう見たか

江戸時代も天皇は日本の不動の核であった。 江戸時代は将軍がいましたから天皇と「大君」が二人いたわけです。将軍は政治、行政の長にあり、天皇はというと「禁中並公家中諸法度」により行動は厳しく制限されていました。天皇は学問、管弦、和歌、雑芸、神事…

南京郊外の虐殺は支那軍の仕業だった

南京郊外の虐殺を日本軍の仕業にすり替えている。 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦で30万という大虐殺があったといわれてきましたが、どう考えても無理があることは多くの人の知るところになってきています。歴史家の笠原十九司氏は虐殺肯…

南京の日本軍の動きでウソ証言はわかる

部隊がいないところで事件はおこらない。 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で南京大虐殺があったといわれますが、展転社「南京事件の核心 データベースによる事件の解明」冨澤繁信(著)を見ると、非常に事件の検証がしやすくなります。当時…

ルック・イースト政策から30年

日本なかりせば。 「ルック・イースト政策」というのは昭和56年(1981年)にマレーシアのマハティール首相(当時)が提唱した政策で日本型の集団主義と勤労倫理を学び過度の西洋型個人主義を見直すというものです。そしてマハティール首相は平成2年(…

南京虐殺プロパガンダ本にご用心

日本人による中共のためのプロパガンダ。 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦で南京大虐殺があったといわれ、それを裏付ける日本兵の証言がよく取り上げられてきました。10年ほど前に出版された「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102…

南京虐殺のデッチあげ証言にご用心

お年寄りは記憶もあやふやで、あることないことしゃべるもの。 昭和12年(1937年)12月、支那事変南京戦で南京大虐殺があったといわれ、それとわかる日本兵の証言がよく取り上げられてきましたが、証言というのは裏取りしなければ犯罪の立証には使え…

夏淑琴さん事件の真犯人は誰か

真犯人は支那の便衣隊だ! 夏淑琴(か・しゆくきん)さん事件というのは昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で、日本軍が南京を陥落させ、城内に進入したとき、夏さん一家と家主一家13名のうち11名を殺害したとする事件です。生き残っ…

夏淑琴さん事件は12月13日に発生したのではなかった

反日プロパガンダに使われている夏淑琴さん事件は再検証すべき。 夏淑琴(か・しゆくきん)さん事件というのは昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で、日本軍が南京を陥落させ、城内に進入したとき、夏さん一家と家主一家13名のうち11…

夏淑琴さん事件の怪

日本軍の仕業であれば、おかしな事件。 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で13日に日本軍が南京城内へ入り掃討戦を開始しました。このとき、日本兵に家族らをレイプされ、殺害されたとして、生き残った当時8歳の夏淑琴(か・しゆくきん)さ…

江戸時代は裸を見られてもへっちゃらだった?

裸を見られて恥ずかしいと思うのはアダムとイヴ観。 幕末に来日したドイツ考古学者シュリーマン(慶応元年 1865年来日)は公衆浴場の前を通ると、男女ともに同じ湯に入っているのを見かけます。ドイツ語は名詞に「男性形」「女性形」「中性形」がありま…

ラーベは南京大虐殺を見たのか

国際委員会の委員長であるラーベは南京大虐殺を見ていなかった。 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で13日の南京城陥落後、六週間にわたって30万人が殺害されるという南京大虐殺があったといわれてきました。このとき難民は外国人メンバー…

南京大虐殺はいったいどこで行われたのか

いくら探しても南京大虐殺の実態は出てこない。いったいどこで虐殺はあったのか。 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で13日の南京城陥落後、六週間にわたって30万人が殺害されるという南京大虐殺があったといわれてきました。南京のいった…

ヴォートリンが南京で見たもの

ヴォートリンは南京で8000件におよぶ強姦事件を何件見たのか。 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で日本軍は南京市を占領しました。ここで日本兵が殺人、略奪、強姦、放火といった蛮行を繰り広げたと言われています。難民を受け入れて国際…

陽気で無邪気で好奇心旺盛な江戸日本人

世界で一番人間性豊かな民族だったのかもしれない。 フランス海軍士官・スエンソンは慶応3年(1867年)に横浜にやってきました。日本人が汚らしい声で何やら言ってくるのが耳に触りました。「そしてこちらも疑い深い目で周囲の色黒でずんぐりした連中を…

南京事件の日々

ヴォートリンは南京をどう過ごしたのか。 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で日本軍は南京市を占領しました。このとき、外国人による国際委員会が設置され、一般市民は安全区と言われる区域に保護されていました。ここで日本兵が蛮行を働いた…

外国人記者たちは南京大虐殺を見ていない

誰も見ていない南京大虐殺。 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で日本軍による民間人を含めた大虐殺が行われたと言われています。それを報じたのがニューヨーク・タイムズ紙記者のF・ティルマン・ダーディン氏とシカゴ・デイリー・ニューズの…

スティール記者は南京大虐殺を見たのか

ダーディン記者もスティール記者も南京大虐殺を見ていない。 昭和12年(1937年)12月の支那事変南京戦で日本軍による民間人を含めた大虐殺が行われたと言われています。それを報じたのがニューヨーク・タイムズ紙記者のF・ティルマン・ダーディン氏…

ダーディン記者は南京大虐殺を見たのか

ダーディン自身は南京大虐殺を見ていなかった。 昭和12年(1937年)12月、支那事変の南京戦で南京大虐殺があったと世界に知らせたとなっているのはニューヨーク・タイムズ紙記者のF・ティルマン・ダーディン氏です。ダーディンは南京大虐殺を見たの…

南京虐殺を世界に知らせたというダーディンは嘘をついたのか

ダーディンは嘘をついたのか? 昭和12年(1937年)12月、支那事変の南京戦で南京大虐殺があったとして、ニューヨークタイムズのF・ティルマン・ダーディン氏が12月18日に伝えました。 ニューヨーク・タイムズ宛特電 「南京における大規模な虐殺…

礼儀正しく、親切だった江戸日本人

知らない人にでも挨拶し、親切だった。 幕末に来日した宣教師、S・R・ブラウン(安政6年 1859年来日)は、江戸幕府からキリスト教を広めるのではないかとの疑惑をいつも意識させられていました。ある日、街路を歩いていると、家来を連れた幕府の警察上役…

南京虐殺幕府山事件の印象操作

自衛行為だった幕府山事件。 昭和12年(1938年)12月の南京戦でよく言われるのが南京城外の幕府山で捕虜を大量処刑した、という話です。これが南京虐殺に相当するというものです。関与したのは山田支隊の歩兵第65連隊両角(もろずみ)部隊と言われ…

無人地帯で南京大虐殺は不可能

人がいないのに大虐殺などできない。 昭和12年(1937年)8月13日、支那軍が上海の日本海軍陸戦隊を攻撃し、第二次上海事変が勃発しました。支那軍は3万、日本海軍陸戦隊はわずか4千。日本は陸軍を派遣します。戦闘は大激戦となり、11月5日の日…

南京虐殺の人口トリック

20万人を30万虐殺できない。 ホロコースト、広島・長崎の原爆とならぶ世界三大虐殺と言われてきた「南京大虐殺」ですが、陥落当時(昭和12年 1937年12月13日)の南京の人口が20万であるのに、30万殺害できるわけがないことは小学生でもわ…

失われていったユートピア、江戸文明

愛しき純ニッポン。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、黒船来襲。ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊が浦賀沖に現れます。以降、江戸幕府は開国の道を歩むことになります。嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約締結、安政5年(1858年…

鎖国中の江戸日本は外国人に興味津津

江戸日本は外国事情に通じていた。 江戸時代は鎖国していましたから、国内には外国人はオランダ人、支那人だけ長崎の出島にしかいませんでした。オランダ人の商館長は「カピタン」と呼ばれていました。カピタンは貿易業務の閉期に江戸へ参府することが義務付…

江戸時代の結婚相手探し

結婚はどうやって決めていた? 現代は恋愛結婚が主流ですが、江戸時代はどうやって結婚相手を探していたのでしょう。明治に入ってですが、長岡藩城代家老の家柄だった稲田家の六女の杉本鉞子(えつこ)(明治五年生まれ)は13歳のとき母親に呼ばれこう言わ…

江戸時代最後の宣教師シドッティ、天に召される

シドッティの情熱は新井白石の「西洋紀聞」に残された。 江戸時代最後の伴天連(バテレン)、イタリア人司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティは日本でキリスト教布教の許可を得るため、宝永5年(1708年)8月に単身で屋久島へ上陸しました。シド…

シドッティとの問答により得た新井白石のキリスト教観

キリスト教は一宗教と結論づけた新井白石。 江戸時代最後の伴天連(バテレン)、イタリア人司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティは日本でキリスト教布教の許可を得るため、宝永5年(1708年)8月に単身で屋久島へ上陸しました。シドッティは捉え…