占守島からシベリアへ
終戦後の昭和20年8月17日深夜から千島列島最北端の占守島にソ連軍が上陸しました。迎え撃つ日本軍の中にわずかな航空兵力があり、海軍のほか陸軍・隼戦闘機がありました。3名の搭乗員がいました。爆装に向いていないので、機銃掃射でソ連軍を攻撃しました。
停戦後、陸軍第五十四戦隊・佐藤少尉は三名の搭乗員に北海道に脱出するように指示します。しかし、そのうちの一人池野准尉は”自分は隊長と一緒に残ります”といいガンとして聞かず残ることになります。しかし、彼らを待っていたのは「ダモイ・トウキョウ(東京へ帰る)」ではなく、極寒のシベリアでした。
佐藤少尉(現・岩瀬しげし氏)
「ダモイ(帰国)が伝えられる・喜び勇んでソ連船に乗ったが、仲間が持っていた羅針盤は、船が南ではなく西へ進んでいることを示していた。到着したのはソ連の極東の港町・ナホトカだった。凍てつくような寒さ。これからどうなるのか。一生、足に鎖をつけられて、死ぬまで働かされるんじゃないか。もう終わりだと、絶望しました」
佐藤少尉はモスクワから東南320キロのタンポフ州都郊外にあるラーダというところに収容されます。国会の記録をみていますとここには7,500人の関東軍や千島方面から将校が集められたようです。佐藤少尉はその後また「ダモイ」と言われ、ウラル山脈の西に位置するタタールスタン共和国のエラブカに到着します。ここは思想犯の重罪のものが収容される町のようです。冬はマイナス30度になりますが、支給されたのは毛布一枚で暖炉はあっても薪がなく、森林地帯に薪を伐採にいかされたりジャガイモの収穫作業に駆り出されたりしました。モタモタすると番兵に「ヤポンスキー、ヨッポイヤンマーチ(日本人め、バカヤロー)」と罵声を浴びせられ、実弾を空に向かって撃つという脅かされながらの作業であり、惨めだったと述べています。
こうした重労働から逃れるには洗濯班や炊事班などに所属すれば逃れることができますが、狭き門となっており、特掃班というのだけは欠員が出ても希望者がおらず佐藤少尉は特掃班に入ります。いわゆるクソ汲みです。クソ汲みは30分だけであとは自由。ソ連兵も近寄らない。民家を訪ね歩き、物々交換をやって、物品を収容所に持ち帰ってもソ連兵は検査もせず、「早くいけ」というのみです。そこで収容所と外をつなぐ仲介業者をやり、儲けながら抑留生活をしのぎます。そしてようやく帰国です。
この収容所では思想闘争のようなもの展開されたことが国会の記録に見られますが、佐藤少尉は人の嫌がる作業をやって特権を得て、うまくやっていたのでしょうか。
占守にいてシベリアに抑留となった兵士の日本への引き揚げ船、明優丸が舞鶴に到着したときの話があります。舞鶴駅で山陰本線に乗り換える、そのとき
「みなさん、長い間ご苦労様でした。お疲れ様でございました」
大きな赤旗を打ち立てて、プラットホームに待ち受けた一群が、明るい声で出迎えました。
「きさまらあ、そんなにロスケがよかったら、とっとといきゃがれ。こっちは、むこうで散々な目にあって暮らしておったんだっ。このやろう」
元兵士たちは殴りかからんばかりに赤旗の群に突進しました。
中には洗脳され、舞鶴に到着するや「敵前上陸だ」と叫び、引き揚げ援護機関の業務を妨害拒否し、日本共産党応援の下に傍若無人の反抗的振る舞いを行ったもの、抑留中を「温情ある取り扱い」としてソ連代表部に感謝の意を表明したグループもいたといいます。
参考文献
「8月17日、ソ連軍上陸す」大野芳著
週刊新潮2009.8.13/20「『シベリア抑留体験記』異聞 特掃班『糞尿係』奮戦記」笹幸恵
参考サイト
第007回国会 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第10号 昭和25年2月6日
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/007/1196/00702061196010a.html
平和祈念展示資料館「苦渋をなめたエラブカの収容所」
http://www.heiwakinen.org/shiryokan/heiwa/06yokuryu/S_06_412_1.pdf
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元シベリア抑留された兵士達の証言と歴史の検証 1/7
http://www.youtube.com/watch?v=75AApreEUJ8