江華島事件に見られる背景抹殺手法

よく見られる歴史抹殺手法。


 梅田正巳著「近代日本の戦争」では1875年(明治8年)の江華島事件(P47)について公式報告には飲み水を求めて入港したところ、突然砲撃され戦闘になったとしてあるが、実は報告書はあとで書き換えられたもので、飲み水が目的ではなく、当初より戦闘行為が目的だったと指摘しています。これは違法の武力行為であると断じています。
 
 この項は「田母神論文」の「相手国の了承を得ないで(得て)」「国際法上合法的/条約等に基づいて」の出兵、駐屯だったか、を検証しているので、この部分だけつまんだのかもしれませんが、当然、こうなる経緯、背景があります。「日本憎し」の歴史家は経緯、背景を無視して軍事的行為のみつまんで「日本悪」と断じますが、梅田氏にそのような意思はなかったでしょうか。
 
 そもそも日本と李朝は江戸時代から対馬藩を通じて江戸幕府とこのときから交流があります。ときは明治元年対馬藩の代表が釜山に到着しました。明治新政府の派遣した使節としてです。しかし、日本からの国書の受け取りは拒否されました。日本の国書は「皇上」「奉勅」「朝廷」の文字が入っており、これは支那の皇帝にのみ許される言葉だからです。李朝は日本の臣下ではないと反発してきたのです。また、李朝は排外主義が台頭していました。日本側は維新の事情を説明しましたがまったく通じませんでした。こうして日朝関係は悪化し、釜山には日本館がありましたが、李朝薪炭食糧の供給を絶つなど冷酷な仕打ちにでてきました。これより征韓論(武力をもって朝鮮を開国しようとする主張する)が台頭してきます。
 明治7年、李朝では政権が一新しました。(大院君から国王へ)日本では征韓論が後退します。そして日本から外務官吏・森山茂を釜山に派遣します。李朝側は受け入れます。日本側が新しい書簡を送って李朝がこれを受理するという提案が承認されました。森山は日本国旗や軍艦旗の模本を李朝側に手交し、沿岸地方に交付して日本艦船を保護するよう要請しました。ところが李朝側は翌年(明治8年)になり前言を翻し、森山一行が汽船に乗ってきたこと、洋式の大礼服で宴会場正門を入ることに異を唱え交渉が決裂したのです。これは政権にまた大院君が台頭して排外主義になったためです。※1 こうして江華島事件に至るわけです。江華島で日本の軍艦が入ってきて砲撃した、そして開国した、などだけ書けば突然侵略してきた、という悪印象を持つでしょう。これが戦後既得権を持つ歴史家の日本人に贖罪意識を植え付ける手法なのです。
 
 さて梅田氏は日本の軍艦が江華島事件が飲み水を求めたわけではないと言っていますが、書き換える前という報告書の内容を同書に記しています。



 まず初日の9月20日、軍艦は沖に錨を下ろし、江華島に向けボートを出した。砲台の位置や航路の様子など偵察を続けながら第三の砲台に近づき、その前を通過しようとしたところ、砲台から突然、激しい砲撃を受けた。小銃で応戦したが大砲には太刀打ちできず、軍艦に引きあげた。
 翌21日、午前8時、艦長は全員を甲板に整列させ、マストに国旗を掲げてこう訓示した。
「そもそも本日戦争を起こす所由は・・・昨日わが端舟(ボート)を出して計測をしているとき、第三砲台より一応の尋問もなくみだりに発砲してきて大いに困却した。このまま捨て置くときは御国の国辱となり、かつ軍艦の職務を書くことになる。よって本日、あの砲台に向けてその罪を攻めることとする。一同、それぞれの職務に従って、国威を落とさないよう勉励し・・・」

 飲み水説がウソなら3カイリ内が領海になるので侵犯になりますが、先に警告なしで撃ってきているのは李朝側のようです。日本側に当初から戦闘意思があった、ということは示されていません。また、飲み水説が完全に否定されているわけではありません。飲み水説がウソだというのはあくまで梅田氏の推測です。「結局は外国の視線をかわすために、井上も納得して飲み水説にもとづく公式報告書がかかれ、それを江華島事件に関する日本政府の公式見解としたものと思われます」と書いています。もちろん日本側は日朝交渉中の5月に軍艦を釜山に派遣して発砲演習を行うなど示威行動を行っていますから、江華島軍艦派遣についても示威行動の目的はあったでしょう。さらに10月にも軍艦を釜山に入れて礼砲を放つなどの示威行動を行っています。※2 梅田氏が著書に大きく書きたてているほど歴史認識インパクトのあるようなこととは感じられません。同氏のひとりよがりだと思います。

 この後、日朝修好条約に至ります。思えば砲艦外交は後味の悪いものですが、当時のアジア情勢を考えるとやむを得ないものでしょうし、封建社会の崩壊は歴史の理でありましょう。それらを乗り越えて、どう近代化を成し遂げていくか、日本も朝鮮も国家生存のための歴史の宿命であったはずです。しかし、梅田氏は次のように結んでいます。

「近代日本の朝鮮・韓国に対するたび重なる武力行使は、軍艦による『挑発』から始まったのです」

 この後のすべての事象がこの江華島事件から発して負に結びついているかのような書き方です。どこまでも日本憎し、の感情が伝わってきます。


※1 展転社大東亜戦争への道」中村 粲著 、朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著 を参考
※2 文藝春秋韓国併合への道」呉善花著 を参考


添付画像
 永宗城を攻撃する雲揚の陸戦隊(PD)

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