占守島の戦い

もし、占守で日本軍の奮戦がなかったら、北海道は・・・


 昭和20年8月17日、千島列島最北端の島、占守島(しゅむしゅとう)にソ連軍が上陸しました。もう戦争は終わっているはずです。「本日未明、敵は竹田浜一帯に上陸開始、目下激戦中、国籍不明・・・」報告を受けた堤師団長は「よし、すぐさま戦車隊に歩兵、工兵をつけて先遣隊として出動、杉野旅団長には、村上警備隊を助けて、敵を海に叩き落せと伝えろ。佐藤旅団はただちに占守島に移動して全軍挙げて殲滅せよ」と指示がでます。北海道の方面司令官・樋口中将からもしばらくして「断固反撃に転じ上陸軍を粉砕せよ」と命令が出ます。
 
 樋口中将の回想
「18日は戦闘行動停止の最終日であり、戦争と平和の交代の日であるべきであった。(略)然るに何事ぞ。18日未明、強盗が裏木戸を破って侵入すると同様の、武力的奇襲行動を開始したのであった。斯かる(かかる)不法行動は許されるべきではない。若し、それを許せば到る所でこの様な不法かつ無知な敵の行動が発生し、平和的終戦はあり得ないであろう」

 樋口中将はここで食い止めなければソ連軍が怒涛のように北海道まで押し寄せてくるという危機感を持っていたでしょう。
 
 占守島に上陸したソ連軍は艦砲射撃を加え、カムチャッカ半島のロパトカ岬(わずか十数キロ先)からの支援砲撃を開始します。日本軍もロパトカ岬へ向けて反撃し、粉砕します。上陸用舟艇十数隻撃沈撃破。航空隊も出撃させます。
 
 占守島には戦車第11連隊(中戦車39両、軽戦車25両)、通称、池田戦車隊がいました。即、出発するわけにはいきません。何しろ戦争は終わったと思っていたので戦車の整備はしていないし、燃料は地中に埋めてしまっており、機関銃や無線機も取り外してしまっています。それらを元に戻してからの出発で2時間はかかりました。そうしている間にも島北東の四嶺山は危険にさらされていきます。池田戦車隊の将校車は歩兵と工兵の到着を待たずに進撃を開始しました。四嶺山に到着した池田戦車隊は敵中へ突入し、敵を竹田浜方面へ追い払いました。
 
 17日深夜から始まった戦闘も20日には柳岡参謀長が軍師としてソ連側グニチェコ少将と交渉にあたりますが、武装解除手順について齟齬があり、ソ連側は部隊を展開させ攻撃準備を完了したという観測が出て、日本側は再び攻撃再開を計画します。これにあわてた方面司令官の樋口中将は停戦と武器引渡しを師団に指示し、総攻撃は中止となりました。
 
 この戦闘で日本側の死傷者は600〜1000名、ソ連側の死傷者は1,500〜4,000名と言われています。ソ連側は随分幅がありますが、ソ連政府機関紙イズベスチヤが「8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と述べたところから、ソ連側の被害が大きかったことが伺われます。

 8月23日、停戦協定調印のため堤師団長は柏原港に現れたソ連軍艦に赴きました。そこでソ連軍グネチコ司令官は「我々は占守島を一日で占領するつもりであった」と地図を指しつつ胸を張ってみせたといいます。そこで堤師団長は「そちらがその気とわかっていたら、わが日本軍は君たちを海へ叩き込んで殲滅したであろう」と応酬しました。

 この後、ソ連軍は9月2日まで次々と千島列島を占領していきますが、もし、占守の日本軍の奮戦がなかったら、どうなっていたか・・・占守の日本兵は「ダモイ・トウキョウ(東京へ帰る)」と言われ船に乗り、着いた場所はマイナス20度のナホトカでした。



参考文献
 「指揮官の決断」早坂隆著
 「8月17日、ソ連軍上陸す」大野芳著

添付画像
 占守島の国端崎灯台 国書刊行会「懐かしの千島」より(PD)
 
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もう一つの硫黄島戦 「占守島の戦い」
http://www.youtube.com/watch?v=dDBF72MbkXU