大東亜戦争

真珠湾に散った英霊たち

自存自衛とアジア解放のために散った若者たち。 昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍機動部隊は真珠湾を攻撃しました。最初の一撃は奇襲となりましたが、敵の反撃も早く、制空隊の新藤三郎大尉は「ふつう、炸裂弾を弾薬庫から出して信管を取り付け…

黒人も快哉した真珠湾攻撃

アメリカの黒人は真珠湾攻撃に快哉した。 昭和16年(1941年)12月7日午前10時半(日本時間)、連合艦隊司令長官山本五十六よりハワイ北に展開する日本連合艦隊機動部隊に電報が送られてきました。「皇国の興廃繋(かか)りて此の征戦に在り、粉骨…

敵、北より来たれば北条、東より来たれば東条 〜 大川周明

ベストセラーとなった「米英東亜侵略史」。 「弘安四年、蒙古の大軍が多々良浜辺に攻め寄せたとき、日本国民は北条時宗の号令の下、たちどころにこれを撃退しました。いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威する時、東条内閣は断固膺懲(ようちょう こら…

トラック島大空襲でも沈まなかった宗谷

不死身の船だった。 戦後、南極観測船となった「宗谷」は大東亜戦中、海軍特務艦として、ラバウル、ソロモン、ミッドウエー、特攻輸送、横須賀港空襲など数々の戦場をくぐりぬけ奇跡的に生き残りました。 昭和19年(1944年)正月、南方のトラック島北…

大東亜戦争を生き抜いた「宗谷」

幸運艦「宗谷」。 戦後、南極観測船となった「宗谷」は昭和13年(1938年)6月に「地領丸」として竣工。昭和14年11月に海軍籍に入り、「宗谷」として海軍特務艦となりました。そして大東亜戦争の中、「不沈艦」の神話が生まれ、遂に大東亜戦争を生…

板垣征四郎と石原莞爾

作戦の石原、実行の板垣。 満州事変、満州建国の立役者、板垣征四郎と石原莞爾。作戦の石原、実行の板垣と言われました。大正9年(1920年)、石原が支那漢口の中支那派遣隊司令部付となったとき、派遣隊の参謀だったのが板垣征四郎です。二人は同じ東北…

石原莞爾の国防思想

「帝国陸軍の異端児」石原莞爾。生まれてくるのが少し遅かったか。 「私が戦争指導をやったら、補給線を確保するため、ソロモン、ビスマーク、ニューギニアの諸島を早急に箒し、戦略資源地帯防衛に転じ、西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラの中心の…

世界から見たカミカゼ

カミカゼパイロットはヒーローだった。 フィリピン・画家 ダニエル・ディソンさん。 「アンヘレスの街で鉢巻をした日本軍の飛行士達を見かけるようになりました。日本の兵隊達は鉢巻をした飛行士と街で会うと、お辞儀をするのでした。当時、私達はこの鉢巻を…

日本民族再興の願い 〜 神風特別攻撃隊

神風誕生秘話。 昭和19年(1944年)10月19日夕刻、フィリピン・マニラの第一航空艦隊司令長官、大西瀧治郎中将はクラークフィールドのマバラカット基地に向かう車の中でこうつぶやきました。「決死隊を作りに行くのだ」 大東亜戦争はマリアナ陥落…

闘将・角田覚冶、テニアンに死す

一機の飛行機もなく、角田覚冶テニアンで戦死。 昭和19年(1944年)2月。角田覚治中将はテニアン島へ着任。第一航空艦隊司令長官に就任し、マリアナ沖海戦(あ号作戦)を支援することになります。 テニアンに着任した角田覚治中将は島の防御施設の貧…

闘将・角田覚冶、テニアンで戦う

第一航空艦隊は壊滅、そして絶望的な地上戦。 昭和19年(1944年)6月15日、アメリカ軍はサイパン島に上陸。テニアン島はサイパン島からわずか5キロのところにあります。海岸には水面が見えないほどのアメリカ艦隊で埋まり、全島に砲撃の黒鉛が立ち…

敵兵を救助せよ

有名な「敵兵を救助せよ」。 昭和17年(1942年)2月27日から3月1日の間、日本軍はジャワ上陸作戦を展開し、インドネシアのスラバヤ沖、バタビア沖でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリアのABDA艦隊と海戦が勃発しました。海戦は日本…

スラバヤ沖海戦で見られた不思議な光景

戦争しているのに不思議な光景。 昭和17年(1942年)2月27日から3月1日の間、インドネシアのスラバヤ沖、バタビア沖で海戦が勃発しました。日本海軍とABDA艦隊との間の戦闘です。ABDAはアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアの連…

嗚呼、サイパン玉砕

われわれの同胞はどうなったのでしょうか。英霊に合掌。 昭和19年(1944年)6月15日から始まった大東亜戦争サイパン地上戦は圧倒的な火力を誇る米軍に対して、日本軍は大奮戦し、苦戦する米軍は第27師団長ラルフ・スミス少将が更迭されたほどでし…

死闘!サイパン砲兵隊

サイパンの死闘。 昭和19年(1944年)6月15日、米軍がサイパンに上陸。これに先立ち、米軍は4日にわたり、猛烈な艦砲射撃と空爆を繰り返していました。独立山砲兵第三連隊(満州にいた部隊。昭和19年3月19日サイパン上陸)黒木大隊は十五榴1…

沈黙の角田覚冶

日本海軍は絶好のチャンスを逃した。 昭和19年(1944年)2月17日、千葉県の海軍香取基地では近く基地から戦地へつぎつぎと向かう予定であったので壮行会を行う予定でした。横森予備少尉らは銚子の「大進」の店へ先発で行き、準備を進めていました。…

「加藤中尉は飛んでいるか?」 〜 南太平洋海戦の角田覚冶

名将の条件。 昭和17年(1942年)10月。大東亜戦争日米戦はガダルカナルの戦闘が激化し、見敵必戦の闘将・角田覚治中将はトラック島進出の命令が下りました。角田少将率いる第二航空隊の「隼鷹(じゅんよう)」「飛鷹」「瑞鳳」は10月4日、日本内…

「各艦、探照灯つけ」闘将・角田覚治、ダッチハーバーへ

角田覚治の生き方。 昭和17年(1942年)6月。ミッドウエー作戦の陽動として角田覚治少将率いる第二機動部隊はダッチハーバーを攻撃します。5月3日に竣工したばかり商船の改造空母「隼鷹」を使っての攻撃です。商船のエンジンは速度変換する空母には…

見敵必戦の闘将・角田覚治

もっと評価されるべき。角田覚治。 「見敵必戦」・・・敵を発見すれば徹底して戦う。これを貫いたのが角田覚治中将です。 大東亜戦争当時の海軍は慎重派が主流でしたが、山口多聞少将と角田覚治中将は闘将派でした。このほかスリガオ海峡を突進した西村中将…

激闘!サイパン戦車隊

あの年のサイパンの夏は熱かった。 昭和19年(1944年)6月15日、米軍がサイパンに上陸。大東亜戦争サイパン地上戦の火蓋が切って落とされました。 戦車第九連隊に出撃命令が発令され、第四中隊がいち早くオレアイ付近に進出し、歩兵部隊と共同して…

自由にしてかつ独立した日本の復活を望んだジャヤワルダナ氏

ジャヤワルダナ氏の名演説。 スリランカ独立後の蔵相となったJ・R・ジャヤワルダナ氏はサンフランシスコ講和条約会議で「自由にしてかつ独立した日本の復活」「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によって消え去るものである」という演説を行…

日本軍がやってきた 〜 コロンボ空襲

我々は行くぞ! 明治37年から明治38年の日露戦争で日本が大国ロシアを打ち破りました。このとき、スリランカの仏教界の重鎮であるアナガーリカ・ダルマパーラは「こんなすばらしいことはない。皆さんは気づいていないかもしれないが、皆さん日本人によっ…

コロンボを空襲した日本軍パイロット

意外に知られていないコロンボ空襲。西亜作戦が知られると「大東亜戦争は最初から無謀だった」というウソがバレるからか? 昭和17年(1942年)4月5日、日本連合艦隊機動部隊はセイロン島コロンボを空襲しました。セイロン島はインドの東南にある島で…

大東亜戦争は聖戦だった 〜 田原総一朗「なぜ日本は大東亜戦争を戦ったのか」(3)

最終回。 ジャーナリスト田原総一朗さんが大東亜戦争について語っています。戦後の言論空間は「日本が侵略した」の一点張りで国民は洗脳されてきましたが、マスコミ関係者としては珍しくタブーを破る意見を出しています。 「それから大川周明はね、もともと…

大東亜戦争は聖戦だった 〜 田原総一朗「なぜ日本は大東亜戦争を戦ったのか」(2)

頭山満や大川周明、たいした人がいたものです。 ジャーナリスト田原総一朗さんが大東亜戦争について語っています。戦後の言論空間は「日本が侵略した」の一点張りで国民は洗脳されてきましたが、マスコミ関係者としては珍しくタブーを破る意見を出しています…

大東亜戦争は聖戦だった 〜 田原総一朗「なぜ日本は大東亜戦争を戦ったのか」(1)

あの田原総一朗さんが? ツイッターを見ていたらテレビでおなじみのジャーナリスト田原総一朗さんが、「大東亜戦争は聖戦だった。勉強してわかった」と言っているのを見て、ちょっとびっくり。サイト「オンザウェイジャーナル」に掲載されていました。http:/…

大東亜会議に出席できなかった国

マレー・インドネシアの独立が遅れたわけ。 昭和18年(1943年)11月5日、東京で大東亜会議が開かれました。日本が主催した世界最初のアジアサミットです。残念ながらこの会議に出席できなかった国があります。マレー・インドネシアがあります。この…

大東亜会議

それは歴史に残る初のアジアサミットでした。 昭和18年(1943年)11月5日、東京で大東亜会議が開かれました。日本が主催した世界最初のアジアサミットです。歴史的出来事です。アジアの自主独立を旗印とし、各国代表演説が行われ、共同宣言を満場一…

連合艦隊司令長官の戦死

山本長官の戦死の真相は? 昭和18年2月、日本軍はガダルカナル島から撤退。4月には山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島に視察に来ることになりました。ブーゲンビル島はラバウルより東側にあり、敵に近い場所ですが、ようやく日本軍は飛行場を整…

ガダルカナル撤退・ケ号作戦

英霊のご加護か。奇跡的に成功した大作戦だった。 昭和17年(1942年)8月から始まったガダルカナル戦は日本軍の補給が思うようにいかず、大量の餓死者と病死者を出していきました。一木支隊、川口支隊、第二師団、第三十八師団と逐次投入し、輸送船団…