聖徳太子の話

独立国家日本の誕生。


 聖徳太子といえば「十七条の憲法」(604年)が思い浮かぶほか、一万円札でしょうか。子供の頃教わったのは「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を隋の皇帝におくって、格が下の日本が対等な文書を送ってきて激怒した、というものがあります。多くの人はここまでは教わっていると思いますが、ここから先が重要で、教わらなかったのは戦後GHQが作り上げたタブーにかかるからかもしれません。
 
 それまではシナの冊封体制といって、シナの周辺国はシナの朝廷に貢物を納め、皇帝から「王」に封じてもらい、その権威で国を治めていました。その証として有名なのは志賀島で発見された金印があります(紀元57年のもの)この金印には「倭の奴の国王」と書かれています。「倭」は小人、「奴」は奴隷という意味です。この冊封体制から脱したのは聖徳太子の外交で「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」となります。隋の皇帝は激怒します。この頃、朝鮮半島を見ると百済高句麗(581年)、新羅が入朝しています(594年)。なんと生意気な日本の王か、と思ったことでしょう。「蛮夷の書、無礼あり」。
 
 ところが隋の皇帝は日本に答礼使を送っています。実はこの頃、高句麗冊封を受けながらも隋に進攻し、隋に打撃を与え(598年)、聖徳太子はこのタイミングを捉えて「日出る処の天子」の国書を送ったといわれています。隋にしては頭にくるが、高句麗と日本が合同しては困る、というところでしょう。
 
 第三回の遣隋使で「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す(もうす)」という国書を送ります。両国がまったく対等になったということです。天皇という言葉がここで初めて登場しました。

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 最近の研究では聖徳太子の実在が疑われており、以前の1万円札の肖像画聖徳太子ではないようです(だから1万円札は福沢諭吉になった)。608年に隋の答礼使節が日本に訪れていますが、男の王に会っており、推古天皇(女性)ではないし、聖徳太子は登場しません。日本の王は阿毎多利思北孤(アメタリシヒコ)で妻はキミ、太子は利歌彌多弗利(リカアタフツリ)となっています(隋書)。日本書紀聖徳太子の死後役100年後に編纂されているので時間のズレがあるのでしょうか。まだまだ謎は多いです。

 余談ですが、中共の要人は来日すると志賀島の金印を見にいくそうです。彼らが何を考えているかわかるでしょう。昨年、1ヶ月ルール騒動の習近平国家副主席が来日しましたが、どこかのネットニュース記事で福岡も訪れた、と伝えていたのを記憶しています。やはり見に行ったのかもしれませんよ。



参考文献
 「天皇論」小林よしのり
 「歴史通」2010.9『隋王朝に独立宣言を叩きつけた聖徳太子』石平
 「歴史通」2009.7『つくられた聖徳太子宮脇淳子
参考サイト
 WikiPedia「倭・倭人関連の中国文献」「遣隋使」

添付画像
 聖徳太子を描いたとされる肖像画「唐本御影」(PD)
 
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法隆寺と対「中国」自主独立〜聖徳太子の思想
http://www.youtube.com/watch?v=Zcv209i4k94