パーフェクト・ゲーム 〜 キスカ島

まさにパーフェクト。キスカ奇跡の撤退。


 昭和18年(1943年)5月30日、アリューシャン列島のアッツ島の日本軍守備隊は玉砕しました。アッツ島より東(米国側)にあるキスカ島の5,300名の日本軍守備隊は孤立することになります。
 キスカ島ではアッツ島宛の電文を傍受し、事実上の玉砕命令電文を見ており、さらにアッツ守備隊の山崎隊長の返電も傍受しています。「その機到らば在島の将兵全員喜んで一丸となり死地に就き魂魄(こんぱく)は長く祖国を守らん」という山崎隊長の返電にキスカ北海守備隊参謀・藤井少佐は「粛然、襟を正さしめるものを感じた」と回想しています。キスカ守備隊の将兵の心情は計り知れないものがあります。
 
 このキスカ撤退作戦は「ケ号作戦」と名づけられました。しかし、制空権もなければ制海権もない中で撤退させるには容易なことではありません。当初は潜水艦による手たち作戦が行われました。しかし、一回の輸送では100名弱しか運べません。5月下旬よりから6月上旬まで800名程を撤退させましたが、米軍のレーダーに捕捉され、被弾して座礁する潜水艦が相次ぎ、中止となりました。
 
 7月7日、巡洋艦阿武隈」を旗艦とする19隻の艦隊により大規模な撤退作戦が始まります。しかし、この作戦は濃霧の中で行わなければ、敵に発見されてしまいます。自然条件に左右されますし、艦隊は千島列島の幌筵島(ぱらむしるとう/ほろむしろとう)を出発しますので、キスカ到着は3,4日後となり、その日のキスカの天候を読むのは困難でした。11日の突入が翌日、さらに翌日と延期になり、キスカ将兵たちも陣地と乗艦予定地を往復し、失望の日々が続きます。そして15日に艦隊指揮官の木村少将は燃料補給のため一旦、幌筵島へ引き返すことを決断しました。
 
 7月22日、艦隊は再びキスカ島へ向かいます。今度は霧は十分。逆に霧のため船舶同士の衝突事故もありましたが、29日はキスカ島への突入に成功します。突入直後には霧が晴れましたが、かえって五千あまりの将兵を迅速に収容できることにつながりました。そして全速力で危険水域を脱出しますと、再び霧が濃くなり艦隊を覆いました。なんという幸運でしょうか。8月1日、キスカ守備隊は無事、幌筵島に到着しました。
 
 このキスカ撤退作戦には気象条件の幸運のほか、艦隊がキスカに突入する3日前に米艦隊のレーダーが島々の反射を日本艦隊と錯覚して誤爆し、燃料補給のためにキスカ周辺から一旦離れていたことも幸いしました。さらに米艦隊は同士討ちまでしてしまいました。そんなときに日本艦隊はキスカへ突入したのでした。
 
 北方軍司令官 樋口中将 キスカ撤退の成功要因について
「なお、神秘的の言辞を弄し(ろうし)得んとすれば、それはアッツの英霊の加護である。なんとなれば、アッツ部隊が余りに見事なる散華全滅を遂げたから、米軍はキスカ部隊も必ずやアッツの前例を追うならんと考え、撤収など考慮に入れざりしならん」
 
 8月15日、米軍は艦砲射撃後、兵力約34,000名をもってキスカ島に上陸します。濃霧の中、米軍は各所で同士討ちが発生。死者約100名、負傷者数十名を出してキスカ島攻略を完了しました。上陸したアメリカ軍の見たものは、遺棄された数少ない軍需品と数匹の犬だけでした。米軍側はあまりにも見事な日本軍の撤収作戦を「パーフェクト・ゲーム」と称しました。



参考文献
 「指揮官の決断」早坂隆著
 「8月17日、ソ連軍上陸す」大野芳著
参考サイト
 WikiPediaキスカ島撤退作戦」

添付画像
 キスカ島に上陸する米軍。昭和18年8月15日(PD)

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カラーフィルムで見る第二次世界大戦15-11.mp4
http://www.youtube.com/watch?v=Ub4IQAL5KOc