徳王の悲劇と内蒙古大虐殺

支那による蒙古人大虐殺があった。


 昭和20年8月15日、日本の降伏により、内蒙古に危機が訪れます。日本の内蒙古駐留軍は武器、弾薬を蒙古軍に提供すると徳王に伝達しましたが、日本軍と蒙古軍の間には距離があり、支那共産党軍が既に分断しており無理な状況でした。徳王は国民政府のもとでの「蒙古高度自治」を求めて重慶に行き、蒋介石に会見しました。しかし、国共内戦で国民党が台湾に撤退すると蒙古自治政府は崩壊します。徳王はモンゴル人民共和国を頼って、ウランバートルに脱出。ところがモンゴル政府は昭和26年(1951年)に徳王を北京に送還し、徳王の長男を日本のスパイの罪名(王侯身分のためという話もある)で処刑したのです。徳王は監獄に入れられ、肝炎を患い昭和38年(1963年)釈放されましたが、昭和41年(1966年)に肝臓ガンで死去しました。

 徳王の悲願が潰えた蒙古には蒙古語がしゃべれない蒙古人、オラーンフーが支那共産党と連合して内蒙古自治区を設立しました。中共イデオロギーによる支配です。ところが昭和41年(1966年)に文化大革命が勃発するとオラーンフーは過去、内人党という外蒙古内蒙古合併を目指していた党で日本に協力したという理由で失脚。そして内蒙古人への弾圧が始まります。

 昭和42年(1967年)から国家の漢族による蒙古人大虐殺が始まります。一方的殺戮であり、内蒙古人は150万人いましたが100万人が逮捕され、死者は5万人と言われています。残虐行為は想像を絶するもので、吊るし上げて拷問したり、舌に針を通したり、素足で火の上を躍らせたり、ペンチで歯を抜くといったものでした。

人民解放軍の劉小隊長
「モンゴル人たちが全員死んでも問題ない。わが国の南方にはたくさん人間がいる。モンゴル人たちの生皮を剥ごう」

 女性に対する強姦や陵辱は日常茶飯で、オラーンフー側近の雲北峰と結婚したモンゴル貴族の奇琳花は7年にわたり暴行を受け、無数の漢人農民に襲撃され、下半身が完全に破壊され歩けなくなりました。また、ボイラー室に閉じ込められ髪の毛が抜け落ち、頭もはれ上がり、子宮も脱落しました。

 かつての日本人は血を流してまで蒙古独立を支持しました。しかし今の日本人は歴史を抹殺され、大物政治家などは「自分は人民解放軍野戦司令官」と名乗ったり、「文化大革命」を絶賛するような始末であり、蒙古、満州親日派少数民族から目を背けてしまっています。



参考文献
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 ワック出版「歴史通」2010.3月『目をおおう凄惨!漢族の内モンゴル虐待』金岡秀郎

添付画像
 蒙古騎兵(PD)

南モンゴル自由連盟党 http://www.lupm.org/japanese/
南モンゴル応援クリルタイ http://smdhyh.blog20.fc2.com/

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