2011-11-01から1ヶ月間の記事一覧

白瀬中尉の南極探検

日本初の南極探検。 白瀬 矗(しらせ のぶ)は日本人初の南極探検を行った白瀬隊の隊長です。日本陸軍の軍人で、最終階級は陸軍輜重兵中尉。文久元年(1861年)6月13日、秋田県由利郡金浦村(現在のにかほ市金浦)で生まれました。家は浄土真宗の浄蓮…

「宗谷」南極へ

戦後の夢を乗せて宗谷は南極へ。 昭和30年(1955年)6月、「国際地球観測年(IGY)特別委員会」が設けられ、各国の南極計画はこの委員会の「南極会議」で検討されることになり、第一回目の会議が7月にパリで開催されることになりました。日本はこ…

海のサンタクロースになった「宗谷」

灯台補給船として活躍した宗谷。 南極観測船として有名な「宗谷」は多彩な顔があり、南極観測船として使われる前は灯台補給船として活躍しており「海のサンタクロース」を演じていました。当時の灯台は有人であり、僻地にある灯台に燃料や機材などを運ぶのが…

命がけの脱出、そして「宗谷」に

二度の脱出劇。そして「宗谷」が待っていた。 荻原雅隆さんは長野県小諸で生まれ、陸軍士官学校を出て、満州とソ連の国境に配属され、そこで終戦を迎えました。そして炭鉱で強制労働に従事させられることになります。一緒にいた10人の仲間は2年の間に4人…

続・ツイッター荒らしにご用心

ツイッターはまだまだこれから。 少し前にある種の思想あるいは外国人と思われるツイッター荒らしに用心するよう記事を書きましたが、「またツイッター荒らしがいた!」という情報があり、しばらくして、私に対しては以下のように返信がありました。昭和12…

引き揚げの悲惨さを見た「宗谷」

戦後を見た宗谷。 映画「南極物語」、ドラマ「南極大陸」でおなじみの船「宗谷」は南極観測船としての顔のほか、大東亜戦争期には海軍特務艦として活躍し、戦後直後は「引揚船」として活躍しました。 特務艦時代に宗谷に乗船していた中沢松太郎水兵長は終戦…

トラック島大空襲でも沈まなかった宗谷

不死身の船だった。 戦後、南極観測船となった「宗谷」は大東亜戦中、海軍特務艦として、ラバウル、ソロモン、ミッドウエー、特攻輸送、横須賀港空襲など数々の戦場をくぐりぬけ奇跡的に生き残りました。 昭和19年(1944年)正月、南方のトラック島北…

大東亜戦争を生き抜いた「宗谷」

幸運艦「宗谷」。 戦後、南極観測船となった「宗谷」は昭和13年(1938年)6月に「地領丸」として竣工。昭和14年11月に海軍籍に入り、「宗谷」として海軍特務艦となりました。そして大東亜戦争の中、「不沈艦」の神話が生まれ、遂に大東亜戦争を生…

ツイッター荒らしにご用心

ブログ荒らしがツイッターに移った?南京事件に食いつく人たち。 以前、Yahooブログを使っていましたが、Yahooの場合、荒らし対策が貧弱で、悪意あるコメントが書かれていたり、自動巡回書き込みソフトを使って10記事に同じコメントを入れてくる人などいま…

南極観測船「宗谷」誕生秘話

宗谷はソ連が発注した船だった。 映画「南極物語」、ドラマ「南極大陸」に登場する南極観測船「宗谷」は昭和13年(1938年)2月16日、長崎で進水しました。実は宗谷はソ連から発注された船でボロチャエベツ(Volochaevets)という船名だったのです。…

板垣征四郎と石原莞爾

作戦の石原、実行の板垣。 満州事変、満州建国の立役者、板垣征四郎と石原莞爾。作戦の石原、実行の板垣と言われました。大正9年(1920年)、石原が支那漢口の中支那派遣隊司令部付となったとき、派遣隊の参謀だったのが板垣征四郎です。二人は同じ東北…