2013-01-01から1年間の記事一覧
大東亜戦争は自衛戦争。 東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the…
ソ連とオランダは何をしたか。 東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal f…
ニュルンベルク裁判や東京裁判は戦争の抑止力にはならなかった。 東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The I…
日本は侵略戦争などやっていない。 第一条 締約国は国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし且其の相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を放棄することを其の各自の人民の名に於て厳粛に宣言す 第二條 締約国は相互間に起ることあるへき一切の紛争…
インチキ裁判の極み。 第二次世界大戦後、敗戦国であるドイツ、日本に対してニュルンベルク裁判、東京裁判(極東国際軍事裁判)が行われました。そして戦争犯罪として判決を受けた人は処罰されています。東京裁判の弁護人であった清瀬一郎博士はこれらは復讐…
ペリーが日本を見て驚いたこと。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。ペリーは翌、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて再び来航…
戦争を回避し、無事条約締結。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。このときは国書を手渡しただけでしたが、翌、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦サスケハナ号な…
優れた交渉術だった。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。このときは国書を手渡しただけでしたが、翌年再び来航し、条約交渉が始まりました。アメリカ側は「親睦」「通商」「石炭…
唯一西洋の通商国オランダはどうしていたか。 江戸時代、日本は鎖国をしていましたが、オランダ、清とは長崎で通商を行っていました。いってみればオランダは日本との通商を独占に近い形で行っていました。幕末日本が開国か、攘夷かに迫られたとき、オランダ…
平和的交渉とは言えなかった。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀沖にアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「…
割れた国論。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀沖にアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)…
江戸幕府は無知無能ではなかった。 江戸時代は鎖国をしており、江戸幕府は海外事情に疎く、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊が突然現れて、幕府は仰天して右往左往した・・・黒船来襲はこのような認識を持っている人が多いのではないでしょうか。あと「異…
橋下氏はB層のコントロールがうまいのか。 適菜収(てきなおさむ)氏の「B層の研究」はなかなか面白く、日本維新の会の党首である橋下徹大阪市長についてもズバリ切り込んでいます。少し引用します。「こうした民主的腐敗の行き着いた先が『一からリセット…
B層とは何ぞや。 「B層」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。昨年末、ネットニュースで紹介していたので、適菜収(てきなおさむ)氏の「B層の研究」を読んでみました。読んでなるほど、これは面白いです。では「B層」というのはどういう人たちか?…
江戸時代は太陰暦で不定時法だった。 現在の日本の暦は太陽暦を使っていますが、江戸時代は太陰暦を使っていました。月の満ち欠けの周期を1ヶ月とする暦法です。十五夜お月様はちょうど15日になります。太陰暦では1年が354日になるため、閏年をはさん…
新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 (c) .foto project 當ブログは歴史を中心に書いてをります。昨年から、近代史だけでなく、江戸時代を多く取り上げるやうにしました。江戸時代の優れた循環型社會、全國民幸福型…