2011-01-01から1年間の記事一覧

大誤算から始まった日本海海戦

皇国の興廃此の一戦にあり。誤算に続く誤算。連合艦隊の運命は東郷平八郎に託された。 「必ずこれを撃滅いたします」 司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると明治37年(1904年)12月に連合艦隊司令長官・東郷平八郎は参内し、明治天皇がバルチック艦隊…

「本日天気晴朗ナレトモ波高シ」、連繋機雷作戦使えず

「本日天気晴朗ナレトモ波高シ」・・・この意味は? 日露戦争真っ只中の明治37年(1904年)8月19日、ロシアの旅順艦隊は旅順港を出航し、ウラジオストックへ向かいました。日本連合艦隊は阻止すべく出撃します。連合艦隊は旅順艦隊を捉え、艦隊の頭…

軍人だけでない、打倒バルチック艦隊

明治人は総力をあげて戦った。 明治37年(1904年)2月、日露戦争が勃発しました。日本海軍は旅順口外、黄海、蔚山沖の海戦でロシア旅順艦隊、ウラジオ艦隊を撃滅。そしてロシアは10月15日バルト海のリバウ港からバルチック艦隊を出航させました。…

神となった「宗谷」

海の守り神「宗谷」。 日本初の南極観測船「宗谷」は樺太犬タロ、ジロが乗った船ということで国民的存在となりました。そして昭和37年(1962年)、「ふじ」にその任務を引き継ぎました。その後、宗谷は北海道配備の巡視船の任務に就きます。 当時、北…

生きていたタロとジロ 〜 南極大陸

『どうして見捨てたのですか なぜ犬たちを連れて帰ってくれなかったのですか』 昭和32年(1957年)1月29日午後8時57分(日本時間30日午前2時57分)、日の丸が南極大陸に掲げられました。第一次南極観測隊が南極大陸に上陸したのです。観測…

誰も見ていない、誰も知らない南京大虐殺

大虐殺を見た人も、認識していた人もいない。 昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で日本軍は南京城内に突入しました。大東亜戦争後、ここで30万に及ぶ大虐殺があったと言われてきました。 南京は城壁に囲まれた城内と城外があり、城外…

慰安婦?挺身隊?歴史を捏造しつづける韓国

歴史を捏造しつづけ、日本からカネをむしり取ろうとする韓国。 韓国の元慰安婦集会が1000回目、日本大使館前に少女像設置 2011年 12月 15日 16:23 JST [ソウル 14日 ロイター] 旧日本軍の元従軍慰安婦の支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会」は14日、…

死体なき大量殺人 〜 南京大虐殺は捏造!

遺体処理の数が捏造されていた。 昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で日本軍は南京城内に突入しました。ここより3週間にわたり30万にのぼる市民が大虐殺されたと言われてきましたが、死体はどこへいったのか? 戦後間もなくの東京裁…

幽霊でも殺害したのか? 〜 南京大虐殺は捏造!

幽霊でも殺害しなければ30万にはならない。 昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で日本軍は南京城内に突入しました。 報知新聞 二村次郎カメラマン 「(城内に)中国人は誰もいませんでした。47連隊とはそこまでで、城内に入ってから…

真珠湾に散った英霊たち

自存自衛とアジア解放のために散った若者たち。 昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍機動部隊は真珠湾を攻撃しました。最初の一撃は奇襲となりましたが、敵の反撃も早く、制空隊の新藤三郎大尉は「ふつう、炸裂弾を弾薬庫から出して信管を取り付け…

黒人も快哉した真珠湾攻撃

アメリカの黒人は真珠湾攻撃に快哉した。 昭和16年(1941年)12月7日午前10時半(日本時間)、連合艦隊司令長官山本五十六よりハワイ北に展開する日本連合艦隊機動部隊に電報が送られてきました。「皇国の興廃繋(かか)りて此の征戦に在り、粉骨…

敵、北より来たれば北条、東より来たれば東条 〜 大川周明

ベストセラーとなった「米英東亜侵略史」。 「弘安四年、蒙古の大軍が多々良浜辺に攻め寄せたとき、日本国民は北条時宗の号令の下、たちどころにこれを撃退しました。いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威する時、東条内閣は断固膺懲(ようちょう こら…

白瀬中尉の千島列島探検

南極探検で有名な白瀬中尉は千島探検にも行っていた。 白瀬中尉は日本人初の南極探検家と知られていますが、その前に千島列島を探検しています。それは明治23年(1890年)の秋、仙台第二師団の機動演習に参加していたところ、児玉源太郎少将(のち大将…

白瀬中尉の南極探検

日本初の南極探検。 白瀬 矗(しらせ のぶ)は日本人初の南極探検を行った白瀬隊の隊長です。日本陸軍の軍人で、最終階級は陸軍輜重兵中尉。文久元年(1861年)6月13日、秋田県由利郡金浦村(現在のにかほ市金浦)で生まれました。家は浄土真宗の浄蓮…

「宗谷」南極へ

戦後の夢を乗せて宗谷は南極へ。 昭和30年(1955年)6月、「国際地球観測年(IGY)特別委員会」が設けられ、各国の南極計画はこの委員会の「南極会議」で検討されることになり、第一回目の会議が7月にパリで開催されることになりました。日本はこ…

海のサンタクロースになった「宗谷」

灯台補給船として活躍した宗谷。 南極観測船として有名な「宗谷」は多彩な顔があり、南極観測船として使われる前は灯台補給船として活躍しており「海のサンタクロース」を演じていました。当時の灯台は有人であり、僻地にある灯台に燃料や機材などを運ぶのが…

命がけの脱出、そして「宗谷」に

二度の脱出劇。そして「宗谷」が待っていた。 荻原雅隆さんは長野県小諸で生まれ、陸軍士官学校を出て、満州とソ連の国境に配属され、そこで終戦を迎えました。そして炭鉱で強制労働に従事させられることになります。一緒にいた10人の仲間は2年の間に4人…

続・ツイッター荒らしにご用心

ツイッターはまだまだこれから。 少し前にある種の思想あるいは外国人と思われるツイッター荒らしに用心するよう記事を書きましたが、「またツイッター荒らしがいた!」という情報があり、しばらくして、私に対しては以下のように返信がありました。昭和12…

引き揚げの悲惨さを見た「宗谷」

戦後を見た宗谷。 映画「南極物語」、ドラマ「南極大陸」でおなじみの船「宗谷」は南極観測船としての顔のほか、大東亜戦争期には海軍特務艦として活躍し、戦後直後は「引揚船」として活躍しました。 特務艦時代に宗谷に乗船していた中沢松太郎水兵長は終戦…

トラック島大空襲でも沈まなかった宗谷

不死身の船だった。 戦後、南極観測船となった「宗谷」は大東亜戦中、海軍特務艦として、ラバウル、ソロモン、ミッドウエー、特攻輸送、横須賀港空襲など数々の戦場をくぐりぬけ奇跡的に生き残りました。 昭和19年(1944年)正月、南方のトラック島北…

大東亜戦争を生き抜いた「宗谷」

幸運艦「宗谷」。 戦後、南極観測船となった「宗谷」は昭和13年(1938年)6月に「地領丸」として竣工。昭和14年11月に海軍籍に入り、「宗谷」として海軍特務艦となりました。そして大東亜戦争の中、「不沈艦」の神話が生まれ、遂に大東亜戦争を生…

ツイッター荒らしにご用心

ブログ荒らしがツイッターに移った?南京事件に食いつく人たち。 以前、Yahooブログを使っていましたが、Yahooの場合、荒らし対策が貧弱で、悪意あるコメントが書かれていたり、自動巡回書き込みソフトを使って10記事に同じコメントを入れてくる人などいま…

南極観測船「宗谷」誕生秘話

宗谷はソ連が発注した船だった。 映画「南極物語」、ドラマ「南極大陸」に登場する南極観測船「宗谷」は昭和13年(1938年)2月16日、長崎で進水しました。実は宗谷はソ連から発注された船でボロチャエベツ(Volochaevets)という船名だったのです。…

板垣征四郎と石原莞爾

作戦の石原、実行の板垣。 満州事変、満州建国の立役者、板垣征四郎と石原莞爾。作戦の石原、実行の板垣と言われました。大正9年(1920年)、石原が支那漢口の中支那派遣隊司令部付となったとき、派遣隊の参謀だったのが板垣征四郎です。二人は同じ東北…

トルコの大地震、親日国トルコ支援を

親日国こそ積極的支援を。 トルコ共和国大使館や和歌山県でトルコ大地震への義援金受付開始 サーチナ 2011/10/28(金) 在日トルコ共和国大使館は2011年10月25日、同国内で発生した地震災害に際し、援助・支援のための義援金の受け付けを開始したと公式ウェブ…

石原莞爾の国防思想

「帝国陸軍の異端児」石原莞爾。生まれてくるのが少し遅かったか。 「私が戦争指導をやったら、補給線を確保するため、ソロモン、ビスマーク、ニューギニアの諸島を早急に箒し、戦略資源地帯防衛に転じ、西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラの中心の…

おさまらぬタイの洪水、親日国タイ支援を

今度は日本が恩返しをする番。 タイ大洪水で首都緊迫 観光名所の王宮も… テレビ朝日系(ANN) 10月27日(木)20時11分配信 収まる気配をみせないタイの大洪水です。バンコク市内は26日までに北部の空港などが浸水しましたが、日本人など外国人が多く住む地区も…

世界から見たカミカゼ

カミカゼパイロットはヒーローだった。 フィリピン・画家 ダニエル・ディソンさん。 「アンヘレスの街で鉢巻をした日本軍の飛行士達を見かけるようになりました。日本の兵隊達は鉢巻をした飛行士と街で会うと、お辞儀をするのでした。当時、私達はこの鉢巻を…

日本民族再興の願い 〜 神風特別攻撃隊

神風誕生秘話。 昭和19年(1944年)10月19日夕刻、フィリピン・マニラの第一航空艦隊司令長官、大西瀧治郎中将はクラークフィールドのマバラカット基地に向かう車の中でこうつぶやきました。「決死隊を作りに行くのだ」 大東亜戦争はマリアナ陥落…

満映の甘粕

満州に見た夢。それは歴史に刻まれた。 大正12年(1923年)9月16日、関東大震災の混乱の中、無政府主義者の大杉栄が殺害され、裁判の結果、憲兵麹町分隊長・甘粕正彦大尉が有罪となり10年の実刑判決となりました。この甘粕大尉は後に満州に渡り、…