万歳、ありがとう 〜 インドネシア

インドネシアからみた大東亜戦争


 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃し、米英に宣戦布告。このときオランダは除外していましたが、オランダが12月10日に戦争状態であることを宣言。日本はスイスを通じて工作を行いましたが、オランダは日本軍の進駐を拒否。1月11日に日本軍はオランダ領のタラカンとメナドへの進攻を開始し、翌12日にオランダと戦争状態である旨の声明を行いました。
 
 2月4日、日本軍はジャワ沖開戦で連合軍艦隊を撃破。2月14日には有名なパレンバン空挺作戦が展開されます。降下部隊第一悌団の挺進兵らは、挺進飛行戦隊の一〇〇式輸送機やロ式輸送機に搭乗しマレー半島を離陸。加藤隼戦闘隊が直掩します。降下部隊は飛行場を占拠後、翌15日にはパレンバン市街を占領しました。
 
 3月1日、バタビア沖海戦を経て今村均中将率いる第16軍主力はジャワ島に上陸し、ただちに進撃し、わずか9日間でオランダ、アメリカ、イギリス、オーストラリア連合軍を降伏に追い込みました。日本軍は上陸前からラジオを通じてインドネシアの解放を呼びかけて「インドネシア・ラヤ」(後の国家)を繰り返し流していました。また、当時ジョヨボヨの予言という「長い間白人に支配された後、北から来た小柄な黄色い人が白い人を追い出し、その後、幸福な時代が来る」が信じられていました。

 インドネシア外交官 ユスフ・ロノディプロ氏
「戦争が始まる前から、日本から発信されるラジオ東京の、特にインドネシア向けの放送を聞くと、後にインドネシア国家となる『インドネシア・ラヤ 偉大なるインドネシア』が流れ、インドネシア語の番組が始まりました。これは日本軍がインドネシアに進軍するために準備として行われたもので、毎日放送されました。
 私たちは、この放送をきいて、日本はアジアとインドネシアを解放するのだと期待していました。
 そのために、1942年3月に日本軍がインドネシアに上陸した時には、当時からインドネシアを表し、後にインドネシアの国旗となる"メラ・プティ"と呼ばれる紅白の旗を振って私たちは皆歓迎しました。
 そして、インドネシア人は日本軍の進軍をいろいろと手助けしました。たとえばオランダ軍が退却するときに道路に放置した障害物を取り除いたり、日本の兵隊たちに食べもものや飲み物を持っていったりしたのでした」

 
 9日間とうい短期間で連合軍を撃破できたのは住民の協力が得らたからでしょう。マレーやビルマでも住民の協力があり、日本軍は短期間で快進撃しています。(インドネシアでは連合軍が日本軍の兵力を過大に見積もったのもある)
 
 オランダのプロパガンダ日本兵は恐ろしいと洗脳された村では日本軍が来るとなるとみんな逃げ出してしまいました。しかし、後にインドネシア国会議員となるハッサン・ラハヤ氏はインドネシア人としては珍しく高等教育を受けることができており、日本人はひどいことしない、と知っていました。

「日本の兵隊さんたちは若い人ばかりでみなきちんとした服装をして規律正しいという印象でした。私は、これを見て、日本軍はインドネシアを助ける軍隊だと思いました。『万歳』『ありがとう』という言葉は私の祖父から教えてもらっていました。私の祖父も先生でした。それから日本人商店の人などからも、その程度の言葉は聞いていました。『万歳』『ありがとう』の二つは日本が大東亜戦争を始めて、香港などをどんどん占領していくのを見て、必ずインドネシアに日本の兵隊さんが来るなと思って覚えていたのでした」

 ハッサン氏は村人に「日本人が村にきたけど何もひどいことはしない」と言って人々を村に戻します。ハッサン氏は村人に「万歳」という日本語を教え、村人は「万歳」と言って日本軍を歓迎しました。日本軍は約2週間、その村に駐留しますが、移動のとき、お世話になったハッサン氏の両親に涙を流して「ありがとう」という日本兵がいたそうです。



参考文献
 桜の花出版編集部「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実」
 「世界が愛した日本」四條たか子著

参考サイト
 WikiPedia「蘭印作戦」
 
添付画像
 バタビア(現在のジャカルタ)の魚市場の活動 1932年 (PD)

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インドネシアの侍
http://www.youtube.com/watch?v=GcXTY5BkOTY