大東亜戦争・インドネシア

インドネシア独立へ

大東亜戦争中、インドネシアでは日本軍がオランダ軍ら連合軍を破り、軍政を敷いていました。昭和19年(1944年)9月、小磯内閣は「将来、独立を許容する用意がある」と声明を発表。昭和20年3月には独立準備調査会を設置。共和制の採択、憲法の草案…

愛国心と誇りを持ったインドネシア人

今度は日本が学ぶ番。 大東亜戦争中、インドネシアは日本軍が軍政を敷いていました。この軍政ではインドネシア語を公用語とし、PETAという郷土防衛義勇軍を創ってその中で士官学校の内容を取り入れ教育し、官吏学校、医科大学、農家大学などを設立し、1…

インドネシアの軍政

軍政は悪だったのか? 大東亜戦争中、日本軍はインドネシアに軍政を敷きました。戦後、日本人は日本悪玉論を刷り込まれたので、「軍政」というと悪いイメージを持つでしょうし、村山談話にあるような「アジアの人を苦しめた」というアジア全域を指すかのよう…

広島人が知ってはならない?歴史 〜 被爆したインドネシア人

劣情広島人が知ってはならない歴史。 昭和18年、「大東亜共栄圏を担う人材育成」のために南方特別留学生というミャンマー、インドネシア、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、フィリピン、タイから学生が来日します。この中にハッサン・ラハヤ氏というイ…

今村均とスカルノ

日本と深い縁があるスカルノ元大統領。 大東亜戦争中、インドネシアは日本軍16軍がオランダら連合軍を打ち負かし、軍政を敷きました。このとき、インドネシア国民党の指導者、スカルノが政治犯としてスマトラ島のベンクルに流刑となっていました。そうする…

トアン、テレマカシ 〜 インドネシア

八紘一宇の精神。 大東亜戦争序盤の昭和17年(1942年)3月1日、日本軍はインドネシアのバンタム湾からジャワ島へ上陸します。しかし、道路を通ろうにも両脇のタマリンドという豆科植物の高い木々が爆破され路上に倒されており、自動車や馬はもちろん…

万歳、ありがとう 〜 インドネシア

インドネシアからみた大東亜戦争。 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃し、米英に宣戦布告。このときオランダは除外していましたが、オランダが12月10日に戦争状態であることを宣言。日本はスイスを通じて工作を行いましたが、オ…

インドネシア独立の戦い

インドネシアは1945年8月18日憲法を制定し、大統領はスカルノ、副大統領はハッタとなります。日本軍は降伏後も所有兵器を保持し、当面治安の安定をつとめ連合国に引き継ぐことになりました。しかし、オランダやイギリスがやってくるとまたもとのもく…

世界最高の親日国家インドネシア

2005年の米メリーランドと英のBBCの調査では世界最高の親日国家はインドネシアでした。これには歴史が大きく絡んでいると思います。 「ジョヨボヨの予言」というタイトルで少し書きましたが1942年1月11日に日本軍はセレベス島のナドへの攻撃を…