2011-08-01から1ヶ月間の記事一覧

NHK大河ドラマ「平清盛」に「王家」と表記した深層

反皇室相変わらずのNHK。 NHKの次期大河ドラマの「平清盛」で皇室を「王家」と表記しているとツイッターで流れていました。NHKのサイトを見るとしっかり「王家」と書かれていました。http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/pre/03/diagram.html この「王…

今年も関東大震災、朝鮮人6,000人虐殺というウソが流されるか

関東大震災で朝鮮人6,000人虐殺はウソ。 今年も9月1日が近づいてきました。だいたいこの時期になると「関東大震災でデマがとんで朝鮮人6,000人が虐殺された」という大嘘が垂れ流されるのですが、次のようなニュースを見つけました。 横浜の県立…

横の民主主義と縦の民主主義

日本には伝統的な民主主義があった。 イギリスの小説家、評論家であるG・K・チェスタトンは「民主主義において現在生きている人々の意見を取り入れる民主主義を横の民主主義という。それにたいして、死んだ人々(=祖先)がどのように考えるかを考慮に入れ…

アメリカが創った歴史

戦後、日本の歴史はGHQが捏造歪曲し、都合の悪い歴史は抹殺した。 大東亜戦争後の被占領時期、新聞上に「太平洋戦争史」が連載され同時にラジオ番組で「真相はかうだ」という「太平洋戦争史」を劇化したものが放送されました。これは後に「真相箱」という…

軍と国民の対立構造を作ったGHQ

反軍思想はGHQが仕組んでいた。 私は子供のころ、太平洋戦争は軍部が天皇と国民をずっとだましていて戦争を続けたため、国土が焦土化し、その後、アメリカがやってきて真実を明らかにして、自由を与えてくれたと教わりました。昭和40年代、50年代の話…

GHQの焚書と検閲

戦後、歴史の捏造歪曲・抹殺が行われた。 戦後、GHQによって焚書が行われました。昭和5年ころから19年頃までに出版された政治、文化、歴史、経済、科学、軍事のあらゆる分野、文学者の従軍記や兵士の体験記、英語やドイツ語の翻訳文献、資源論から精神…

湯川秀樹と原子爆弾

湯川秀樹は語らなかった。 湯川秀樹と言えば、昭和24年(1949年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した理論物理学者です。大東亜戦争敗戦間もなくの頃、ノーベル賞受賞は日本国民を勇気づけた、と学校で習った記憶があります。 大東亜戦争当時、…

喧嘩が弱かったから原爆は落とされた

喧嘩が弱ければやられる。これは世界の常識。 昭和20年(1945年)8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。9日には長崎に投下されました。 日本陸軍は昭和18年夏より優れた数学者を集めアメリカの暗号解読をはじめ、昭和19年には解き始めてい…

フジテレビは誰のためにあるのか

会社は誰のものか、誰のためのものか。 俳優の高岡蒼甫がツイッターでつぶやいた一連の発言をきっかけにフジテレビの「韓流ゴリ押し」に批判が集まっています。「正直、お世話になった事も多々あるけど、8は今マジで見ない。韓国のTV局かと思う事もしばしば…

広島のGHQの子孫たち

GHQによって洗脳された広島の人々。 昭和22年(1947年)12月7日、広島護国神社跡に昭和天皇がおられました。「熱心な歓迎に嬉しく思う。広島市民の復興の努力のあとをみて満足に思う。みなの受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にする…

原爆投下後のヒロシマの声

『兵隊さん、きっとこの仇を取ってください。』これがヒロシマの声でした。 昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。賀茂海軍衛生学校練習生隊 西家明男 「治療を受けに集った負傷者を混雑しないように縦列にな…

8月6日、広島の朝

あの夏の朝、原爆は投下された。 昭和20年(1945年)8月6日広島。 空襲警報 午前〇時二十五分発令 午前二時十分 空襲警報解除 午前二時十五分 警戒警報解除 警戒警報 午前七時九分発令 午前七時三十一分 警戒警報解除 町内会の役員や警防団員は、前…

横浜市教委、育鵬社の教科書採択

やったね、横浜。 横浜市教委も育鵬社の教科書採択、県内3例目 愛国心主眼/神奈川 2011年8月4日 カナコロ 横浜市教育委員会の定例会が4日開かれ、愛国心の育成を主眼に置く育鵬社の歴史と公民の教科書を採択した。2012年度以降順次、市立中学校と中等…

原爆投下の序曲

迫り来る8月6日。 昭和20年(1945年)、5月28日、アメリカ大統領トルーマンのもとにモスクワに派遣していた腹心ホプキンスより報告が入ります。「8月8日にはソ連軍は満州の防衛線にたいして間違いなく攻撃を開始します」 トルーマンとマンハッ…

闘将・角田覚冶、テニアンに死す

一機の飛行機もなく、角田覚冶テニアンで戦死。 昭和19年(1944年)2月。角田覚治中将はテニアン島へ着任。第一航空艦隊司令長官に就任し、マリアナ沖海戦(あ号作戦)を支援することになります。 テニアンに着任した角田覚治中将は島の防御施設の貧…