日本に学んだ支那の人たち

支那語は日本製。


 1905年、日本は日露戦争に勝利しました。この日露戦争の勝利は有色人種が狂気して喜びました。清国(シナ)の若者は大挙して日本に留学に押し寄せ、数万余にのぼりました。孫文(後、初代中華民国臨時大総統)はイギリスから東京に急行し、迎えた清国人たちは東京で「中国革命同盟会」を結成しています。

 日露戦争以前にも支那人は、黄遵憲(こう じゅんけん)が1877年に初代駐日大使として来日しており、日本の明治維新に着目し「日本国志」を書きます。これを読んで日本の維新に学ぶ必要性を確信したのが、康有為(こう ゆうい)です。康は立憲君主制樹立を最終目標とする変法を行うよう清皇帝に上奏し、改革運動を繰り広げます。その結果、一連の改革の詔勅が発布されることになりました。(後に西太后により挫折させられる)
 立憲君主制を目指した康有為に対して、孫文は清国打倒でした。清国が科挙という官僚登用制度を廃止したのも手伝い、支那人の日本留学は政治活動の拠点ともなり、これらの日本留学組が清国を倒すことに大きく関係したのですから皮肉なことです。

 周恩来も1917年、天津の学校卒業後に日本に留学しています。この天津の学校・南海学は厳範孫という人が日本を訪れて教育事情を視察し、それに基づいて開校しました。卒業生は日本に留学し、留学生は同校の同窓誌に寄稿しました。その中に次のような日本の印象が述べられています。

大和民族は勤勉で素朴であり、進取※1に富んでいることは偽りではない・・・田舎の農村では、男女が共に農作業し、官庁や商店では男女が仕事を分担しながら、勤労、倹約に努め、尊敬しあっている。これらの民族性が国を強くする要素であろう」※1みずから進んで物事に取り組むこと

 これら支那人留学生が支那に持ち帰ったものに「日本語」があります。「人気」「写真」「職場」「達人」「健康」「衛星」「安全」「文化」「時間」「生産」「新人類」「超〜」「科学」「化学」「微分」「積分」「方程式」「原子」「分子」・・・すごくたくさんあるようです。現在のシナ語は魯迅(ろじん)という文人、その弟、日本文化研究者の周作人という人が日本語をモデルにして「作った」ものなのだそうです。いわゆる言文一致にしたものです。だから漢文など支那人には全然通じないといいます。

 中華人民共和国 共産党一党独裁 覇権政権高級幹部 指導社会主義市場経済

この中で支那本来の言葉は「中華」だけであとは日本製です。

 さてと、、、反日運動で、日本製品をボイコットするとか、日本のものは使わないというのなら、日本製支那語も使わないでいただきたい、と言いたいです。日本が侵略したというなら、ほう、言葉の侵略ですか。でしたら言葉引き揚げます、使わないでください、と言ってやりましょう。支那人はもう生活できなくなります。政治はストップするでしょう。



参考文献
 「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
 「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著/中山理訳/渡部昇一監修
 オークラ出版「世界に愛された日本」
   『近代中国の礎を築いた日本留学組』坪内隆彦
   『和製漢語と日本式台湾語』劉美香
参考サイト
 「康有為」「周恩来」「魯迅

添付画像
 魯迅(PD)

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