東京裁判でソ連とオランダは日本断罪の資格はない、と断じたパール判事

ソ連とオランダは何をしたか。




 東京裁判というのは大東亜戦争で日本敗戦後、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。正式には「極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)」と言います。(1946年5月3日〜1948年11月12日)。

 東京裁判の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事で、パール判決書にソ連とオランダについての言及があります。

ソビエト社会主義共和国連邦およびオランダが、本件における訴追国であり、また両国とも日本にたいして自国側から宣戦したということを、記憶しておかなければならない。ソビエト連邦に関するかぎり、かりに自衛ということは、ある条件のもとに、戦争を開始することを容認するものであると解釈しても、同国の対日宣戦当時の事態が、防衛の考慮から必要となった戦争であるとして、これを正当化するような事態であったとはいえないであろう」

ソ連が昭和20年(1945年)8月8日に対日宣戦布告したという事実は結構知られていることでしょう。ほとんど日本が焦土化し、弱りきったところで宣戦布告し、満州に攻め込み、千島列島、南樺太を奪ったという火事場泥棒のような行為でした。オランダが先に対日宣戦布告をしたというのは意外に思う人が多いかもしれません。昭和16年(1941年)12月8日に宣戦布告しています。オーストラリアやニュージーランドも先に宣戦布告しているのです。

「(ソ連の行為は)すでに敗北した日本にたいする戦争の中に『方法を選ぶことも、また熟考の時間をも許さないような緊急かつ圧倒的な自衛の必要』を読み取ることは、おそらく困難であろう」

「攻撃を受ける危険のないところに、幾分でも防衛の必要があった − その必要が緊急なものにせよ、そうでないにせよ、圧倒的であるにもせよ、そうでないにもせよ − と判断するのは困難であろう。日本はすでに致命的に弱められソ連はそれを知っていた。1945年8月6日、日本は最初の原子爆弾攻撃を受けた」

パール判事はソ連の宣戦布告は自衛権の行使とは言えないと述べています。

「オランダの行為に関しては、もしわれわれが侵略ということについて、ジャクソン検察官が示唆したような判定の標準を受け入れない場合にかぎり、自衛の手段として肯定することができるかもしれない」

ジャクソン検察官というのはドイツを裁いたニュルンベルク裁判で「侵略者」の定義をした人です。その定義の一番目に「他国に宣戦を布告すること」というのがあるのです。この定義を受け入れないのであれば「自衛」と呼べるかもしれない、と述べていますが、連合国側が侵略の定義をしておきながら、東京裁判でオランダの「宣戦布告」行為はスルーしているのですからおかしい話なのです。さらにパリ不戦条約では次のように定められています。

第一条 締約国は国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし且其の相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を放棄することを其の各自の人民の名に於て厳粛に宣言す

第二條 締約国は相互間に起ることあるへき一切の紛争又は紛議は其の性質又は起因の如何を問はす平和的手段に依るの外之か処理又は解決を求めさることを約す

この条約は「自衛権」は認めており、その判断はその国に委ねることになっています。ソ連の対日参戦は「自衛行為」であり、オランダの対日宣戦布告も「自衛行為」だったとし、条約違反でなかったとするのであれば、日本の戦争も自衛行為になるのであり、日本がパリ不戦条約違反だと訴追するのは無理があります。もし、日本の戦争を「条約違反」「侵略」とするのであれば、ソ連もオランダも同じように「条約違反」「侵略者」ということになります。二国には訴追の資格はない、ということです。そしてパール判事は次のように皮肉っています。

「みずからかように犯罪を犯した国々が、自国民中の同種の犯罪人を等閑(とうかん なおざり)付し、一丸となって戦敗国民を同様の犯罪のかどで訴追しようとは、かりそめにも信じられない」

東京裁判のインチキぶりをズバリ指摘していると言えるでしょう。



参考文献
 WAC「日本は侵略国家だったのか『パル判決書』の真実」渡部昇一(著)
 講談社学術文庫「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(編)

添付画像
 ウィリアム・F・ウエップ裁判長(PD)

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