「アジア情勢」と「国家」が抜け落ちた台湾出兵に関する言及

日本は侵略される側だった。


 梅田正巳著「近代日本の戦争」の台湾出兵の述べている箇所です。(P33)



 だいたい、事件(牡丹社事件)が起こったのは1871年11月、出兵したのは74年5月です。この間2年半もたっています。どうしてそうなったのか。まず当時の琉球と台湾、それぞれの国際的な位置関係が微妙であいまいだったこと、それに日本新政府の野心と政府内の派閥抗争、さらに清国の弱体化に伴う優柔不断がからみあって事態は複雑になったのです。

 「日本政府の野心」という言葉が出てきました。この言葉でイメージを植えつけているわけですね。この頃の明治政府内のことについては私は詳しくないのでなんともいえませんが、日本が主権国家として世界にデビューしたときの世界情勢、アジア情勢というものは、「野心」を抱かせるようなものではなかったと思います。

 日本が開国したときのアジアの情勢はというと南からは英国が植民地支配を拡大しており、そのおこぼれにフランスとオランダが与かっていました。北からはロシアが南下してきており、満州樺太に進出していました。つまり、北上する英国と南下するロシアがぶつかった地点が日本であり満州朝鮮半島だったわけです。1861年に対馬にロシアが進出するという事件がおきています。このときイギリス艦退去を要求し、事なきを得ています。
 日本は開国し、主権国家として国際デビューを果たしましたが、弱小国家であり外国の脅威にさらされていたわけです。まず国境の確定は急務でした。1871年に副島種臣がロシアに行き、樺太の境界を協議し、1874年に榎本武揚特命全権公使としてペテルブルグに赴いています。そして1875年に樺太・千島交換条約を結びました。※1
 西からやってきたペリーは日本侵略の意図は薄かったと思いますが、沖縄を占領しようとしていたと言われています。またイギリスは小笠原を占領しようとしていたことがあります。※2
 
 梅田正巳氏は台湾出兵を述べるにあたり、未熟ではあるが主権国家としての日本、世界情勢、アジア情勢の観点がごっそり抜け落ちています。日本国民の生命が奪われたとき、日本国家としてどういう態度を取るべきか。国際デビュー間もない未熟な日本がアジア情勢を鑑みながら対応していかなければなりません。領土確定を主張し、そこを日本国としたなら、当時「眠れる獅子」と恐れられた清国が相手でも国民の災難に対しては日本国民として扱い毅然とした態度を取らなければならないでしょう。しかし相手は大国であり、なんらかの譲歩も考えておかなければならないでしょう。梅田氏が開国後間もない日本がこういう状況下にあることは当然知っているでしょう。しかし、この台湾出兵の項では隠しました。あくまで日本は野心があり、加害者であり侵略者でなければならないからです。



※1 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子著(P113初期の日露関係)を参考
※2 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二著(P306日本を救った林子平の先見力 ほか)を参考

添付画像
 ペリー艦隊のミシシッピ号(PD)

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