人を喰う支那人に喰われるな

支那人というものを歴史から学べ!


 京都大学京都帝国大学)教授東洋史学者、桑原 隲蔵(くわばら じつぞう、明治3年12月7日(1871年1月27日) - 1931年(昭和6年)5月24日)『支那人の食人肉風習』

「日支両国は唇歯(しんし)相倚る(あいよる)間柄で、勿論(もちろん)親善でなければならぬ。日支の親善を図るには、先づ(まず)日本人がよく支那人を理解せなければならぬ。支那人をよく理解する為には、表裏に二面より彼らを観察する必要がある。経伝詩文によって支那人の長所美点を会得するのも勿論必要ですが、同時にその反対の方面をも、一応心得置くべきことと思う。食人肉風習の存在は、支那人にとって余り名誉のことではない。されど厳然たる事実は、到底之を掩蔽(えんぺい)することを許さぬ。支那人の一面に、かかる風習の存在せしことを承知し置くのも亦(また)、支那人を理解するに無用であるまいと思ふ」

 支那人の食人肉風習というのは戦前では当たり前のように日本人は知っていたようですが、戦後はプレスコード※1のせいか意外に知られていません。
 食人肉風習はウルグアイ空軍機571便遭難事故で人肉を食べて生き延びたことにあげられるような異常事態の場合のことではなく、風習として人肉を食することをさします。支那では近代までこの風習がありました。
 日清戦争のとき、清国軍の捕虜となった日本兵は虐殺され、食われています。清朝西太后が重い病になったとき、重臣のひとりが自分の腿の肉を切り取って調理させ、西太后に食べさせたといいます。清では重篤の病人がいた場合、息子や親戚縁者、忠実な友人や召使が進んで自らの人肉を差し出して、薬と調合して飲ませると病人の健康が回復するとされていました。おそらくこういう話を探せばいくらでも出てきそうです。古代の話のものは信憑性が不明ですが、戦後、文化大革命時にも粛清という名目で人肉食が広西等で白昼堂々と行われていたという報告があります。半島でも同様で明治28年に大韓帝国皇帝がロシア公使館に軟禁されたとき、総理大臣の金弘集は撲殺され、民衆に喰われています。
 
 現在の中共では食人肉は禁止されています。しかしどうでしょう。こういったDNAはなんらかの形に変えていないでしょうか。上智大学名誉教授の渡部昇一氏は以下のように述べています。

「現在その風習(食人肉)が一般的ではないにせよ、その軍備一つ取ってみても、世界中で毎年十数パーセントもの軍備拡張をしている国は中国のほかに見当たりません。
 しかも具体的な敵が存在するわけでもないのに、江沢民の時代から、軍事力を増強して積極的に海洋進出を行っています。尖閣諸島は自国の領土だという発言も聞こえます。海洋進出の先には、わが国があるとしたら、これこそ『食人肉風習』のDNAがなせる業かもしれません。
 中国と友好関係を結ぶには、中国から侵略されないという具体的な力を持ち、なおかつ歴史的劣等感を持たないという、実態と心の対応策を持たなければいけません。でなければ徒に(いたずらに)友好友好と口にしても、無駄というよりむしろ危険なだけです」

 彼らが「食人肉風習」というのを忘れて(知らない振りして?)いたずらに「友愛」「友愛」と口にした結果、とんでもないことになってきているのは誰の目にも明らかです。



※1プレスコード・・・GHQによる報道規制。関連記事「プレスコードは生きている」http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/24628916.html

参考文献
 「渡部昇一の昭和史(続)」渡部昇一
 「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著
 「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
参考サイト
 WikiPedia桑原隲蔵」「カニバリズム

添付画像
 文化大革命のポスター(PD)
 
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