2009-09-01から1ヶ月間の記事一覧

満州の日本の権益を否定する国民党

1929年(昭和4年)世界恐慌が起こり、南満州鉄道株式会社は創業以来の赤字に転落します。張学良は国民党に帰順しており、これに乗じて国民党は日本が条約に基づいて得た正当な権益を否定する法令を次々に発布します。張学良はこの年、北満州鉄道をソ連…

満洲某重大事件

1928年6月、蒋介石の北伐によって満州の軍閥の張作霖は奉天へ向かう途中に爆殺されます。日本の権益を無視する張作霖を見限ろうとする排張論の河本大佐の仕業とされてきました。しかしながら最近ではコミンテルン陰謀説も浮上しています。またこの頃、…

昭和天皇は三度退位を覚悟された

昭和天皇は立憲君主制の下「神聖不可侵」であったため、敗戦については政治的責任はありませんでしたが、国家元首としての道義的責任はあるというのが大方の見方ではないでしょうか。これは終戦当時も近衛文麿、皇族の東久邇宮、首相の鈴木貫太郎が言及して…

天皇マッカーサー会談

昭和20年(1945年)9月27日、第一回目の昭和天皇とGHQマッカーサー司令官の会見が行われます。場所は赤坂の米大使館、藤田侍従長、石渡宮相、フェラーズ准将らは隣室で控え、会見に立ち会ったのは通訳をつとめた奥村勝蔵外務参事官だけで37分…

済南事件

1928年、北伐を再開した蒋介石は怒涛の快進撃を続け、あっと言う間に山東省の済南に達します。これに対し、日本は数万の居留民保護のための「第二次山東出兵」を決断し、5月に国民党軍との衝突が起こります。この時、内閣は田中義一内閣となっており弱…

漢口事件

弱腰外交は漢口でも悲劇を生みました。1927年(昭和2年)4月、日本の水兵が散歩していると子供が石を投げてきて、水兵が追っ払う、そんなことをしている内に支那人が多く集まってきて日本水兵に言いがかりをつけはじめ、日本水兵を取り囲み殴り始めま…

尼港事件

尼港事件(にこうじけん)は1920年(大正9)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、中国人四千名から成る、共産パルチザン(遊撃隊)という革命派によって黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在の…

南京事件

1926年7月からソ連の莫大な援助をもとに蒋介石は北京軍閥政権張作霖の打倒を目指した北伐を開始します。翌年2月には漢口、3月には南京に達します。蒋介石は4月に上海クーデターを起こし、南京に国民政府を樹立します。 3月の南京占領の際に日本領事…

日の丸と皇室

沖縄大学教授の宮城能彦(みやぎよしひこ)氏は沖縄本島北部の村の調査を行ったときに村の出身者で作る「郷友会」が開催する合同成年祝い(73歳と85歳のお祝い)には日の丸が掲げられており、村出身の90歳の老人の家に聞き取り調査にいくと皇室のカレ…

一般参賀と天皇陛下万歳

皇居では新年と天皇陛下誕生日に一般参賀が行われています。これは昭和20年に62名の男女が自主的に皇居の草刈をさせてくれと申し出て3日間奉仕したことから始まっています。これを喜ばれた昭和天皇が勤労奉仕団の前に姿を見せられ、これが口コミで全国…

祈る君主

天皇陛下のお仕事に皇室祭祀というのがあります。早い話「祈り」です。大祭、小祭、旬祭とあります。大祭は天皇陛下自らが祭典を行う祭祀です。これだけでも元始祭(1月3日)、先帝祭(1月7日)、春季皇霊祭(春分の日)、神武天皇祭(4月3日)、秋季…

麻生さんお疲れ様でした

麻生内閣が総辞職し、鳩山内閣が誕生し、TVを賑わせています。マスコミというのは「話題」先行のようで、麻生内閣を振り返って、その功罪の総括や日本国首相にたいして「ごくろうさま」ぐらいのちょっとした企画はできないものでしょうか。不祥事を起こし…

君が代少年

1935年(昭和10年)4月21日、台湾中北部を大地震で公学校三年生の男子生徒が倒壊した建物の下敷きになりました。少年は虫の息になりながらも、駆けつけてきた先生を見上げて国家「君が代」を歌い、そして静かに息を引き取ったというものです。この少…

台湾近代化の父「後藤新平」

1895年の下関条約締結当時、清国の全権・李鴻章(り こうしょう)は伊藤博文首相に「台湾には四害あり、統治は不可能だ」として、日本に台湾割譲を諦めさせようとしました。この「四害」とはすなわち、アヘン、土匪、生蕃(原住民)、そして瘴癘(しょう…

エルテュールル号

TVなどでやっているので多くの日本国民が知っている話だと思います。 1890年明治23年9月16日深夜、紀伊半島の先端の港町・串本や、その東に浮かぶ大島付近には午後4時半に暴風警報が出され、風雨は暗闇が迫ると共に強さを増していきました。大島…

朝鮮の労働蔑視社会を変えた日本

李朝時代の朝鮮は両班(ヤンバンあるいはリャンバン)と言われる貴族階級があり、儒教が説く成人君主たる条件である働かず身を動かさない、という教えを守り、極端に労働蔑視していました。グレゴリー・ヘンダンーソン 『朝鮮の政治社会』 「国家と民衆を食…

皇国民を目指した朝鮮人

1938年、朝鮮で初の志願兵が募集され志願者2946名中406名が合格します。 1939年 12,348名志願 613名合格 1940年 84,403名志願 3,060名合格 1941年 144,743名志願 3,208名合格 1942年 254,2…

マッカーサーを激怒させた男

ニューズウィーク東京支局長で英国人のコンプトン・パケナム記者は米軍占領時代に日本を取材し、昭和天皇の信頼が厚かった松平康昌や鳩山一郎、吉田茂、樺山愛輔、白洲次郎、野村吉三郎らと交流がありました。この人の肉筆の日記が発見され、ジャーナリスト…

江戸時代の平和ボケの頃

江戸時代は平和が長く続きましたが、そんな中で林子平(1738年8月6日−1793年7月28日)と言う人が、「三国通覧図説」というのを書いており、朝鮮、琉球、蝦夷が侵略されると日本は危ういと説いています。次に「海国兵談」を書きます。これは学校でも習った人…

日本の台湾統治のはじまり

日本が台湾を統治することになったのは1895年(明治28年)4月17日に締結された下関条約によるものです。それまで台湾は清王朝から使わされた官吏によって支配されていましたが、「三年一小反」「五年一大乱」という具合に住民の反乱が絶えないぐら…

台湾人の皇室への思い

1935年(昭和10年)4月21日、台湾中北部を大地震が襲いました。死者は三千名を超える未曾有の大惨事となりました。昭和天皇は入江相政(いりえすけまさ)侍従を遣わし、被災地の民家を一軒ずつ回られ、その被災度によって昭和天皇からのお見舞金を下…

搾取したのは韓国

日韓併合前、韓国は財政破綻、国家破産の状態であり、併合によって日本は大変なお荷物を背負わされることになりました。1910年の朝鮮半島の歳入は4600万円ですが、日本より1235万も補填しています。日帝三十六年の朝鮮の財政は4600万円から…

日韓合邦を熱望した一進会

日韓合邦は李容九らの一進会とよばれる政治結社が提唱していました。一進会は東学党の流れを汲んでいます。東学党は1894年の東学党の乱で知られていると思います。 1824年、没落した両班(貴族)の家に生まれた崔済愚が、万人平等、人間尊重を説き、…

チベットの悲劇

チベットは1911年に清朝が崩壊すると清を完全に排除します。1913年にはモンゴルとの間で「チベット・モンゴル相互承認条約」を締結し2国が漢民族の侵略に対抗するようになります。 1921年から日本はチベットに武器、弾薬を輸出しているんですね…

列強が支持した日韓合邦

日韓合邦は日本帝国主義が武力による強制だったというのは真っ赤なウソであり、韓国は一進会という韓国民衆のエネルギーを結集した知識人たちの政治団体があり熱烈に日韓合邦を望んでいたのに対し、日本は巨大なお荷物を抱えることに躊躇していました。 当時…

チベットを侵略した英国

日露戦争は満州から南下するロシアと支那から北上する英国が衝突した戦争ともいえます。日本は安全保障の必要上、英国と国益が一致し、日英同盟を結び日本が戦った。英国は自らが戦うより日本に戦わせたほうが良いと考えました。 では、英国は何をしていたか…

八田ダム

18世紀末、台湾では土地開発は飽和し、人口過剰による食糧不足となり、19世紀に入ると飢饉が深刻化し、コメを輸入に頼るようになります。流入する漢人との土地をめぐる対立も激しくなります。しかし、日本統治時代に入りコメ生産量は4倍に急増し、砂糖…

六士先生

日本の台湾統治前の台湾の教育は「書房」と呼ばれる日本の寺子屋に相当するような庶民階級の子弟教育の場がありましたが、個人的な教育の場であり、教師の自宅や寺を使っていたため、環境が不十分だったのと、教師に使命感が乏しかったようです。就学率もか…

霧社事件

清国統治時代の台湾では中央山脈や東部の広範囲を支配することができませんでした。後に高砂族と称される生蕃(せいばん)が清の侵略に抵抗し、軍隊が来襲しても撃退するほどの戦闘能力を持った集団だったからです。 日本の統治に入ってからも日本軍は3,000…

牡丹社事件

1871年、琉球の宮古島の朝貢船が暴風に流され、遠く台湾東南部に漂着しました。乗組員69人のうち、3人は水死、残りはパイワン族の部落、牡丹社(ぼたんしゃ)に救援を求めましたが、仇敵の漢人と間違えて54人が首を切られて殺されてしまいます。生…