2009-10-01から1ヶ月間の記事一覧

チベット大虐殺のはじまり

チベットを侵略した中共軍は当初はチベット人民に対して親切で礼儀正しかったといいます。農業を手伝ったり、仏像に敬意を表していました。人を傷つけるようなことはせず、女性に触れたり、物を破壊することは一切なかったそうです。そして病院を建て、学校…

チベット!チベット!

外出しても、何を叫んでも、殺されないこと これがチベット人が望んでいる「自由」です 1949年9月1日、中華人民共和国成立の1ヶ月前、新華社通信は「チベットは中国の領土であり、いかなる外国の侵略も許さない」「人民解放軍は必ずチベット、新疆、…

OSSが仕掛けた日本共産化計画「GHQ憲法」

1990年以降、ワシントンの国立公文書館でCIAの前身にあたるOSSの機密文書が再調査されています。まだ全部は公開されていないようです。これによると「日本計画」といわれる対外基本戦略が作成されていることがわかっています。このOSSが知識人…

GHQ憲法作成のために葬られた近衛公

1945年(昭和20年)9月13日、終戦直後、東條内閣の前の内閣総理大臣、近衛文麿はマッカーサーと会談します。このときは米軍の通訳の水準が低すぎ、実りのない内容でしたが、10月4日の会談で近衛公は日本の赤化懸念を強調します。そしてマッカー…

長谷川清総督と愛国乙女サヨン

昭和15年に長谷川清海軍大将が台湾総督に着任します。日露戦争のときに三笠に乗船しており、『三笠艦橋の図』で東郷平八郎海軍大将の背後に描かれた測距儀の上から軍帽だけ見えているのが長谷川清です。顔は見えませんが・・・ 台湾総督の着任式後の歓迎レ…

人命軽視のノモンハンのソ連

ノモンハン事件で国境の河を越してきたソ連軍を撃退したところ、高台にいたソ連軍は退却して来る味方の部隊を火炎放射器で焼き払ったという実目談があります。またソ連軍は退却しても5,6百メートル手前で停止したというのもあります。督戦隊がいたのです…

ノモンハン戦の日本兵の手記より

日本兵士は陣中日記というのを書く習慣があったようです。これは本来はよろしくないことのようで、戦場で倒れた兵士の日記から軍の動きが知られてしまうからです。1939年のノモンハン事件でも兵士が書いた陣中日記があります。ただ、陣中日記というのは…

発展した満州経済

1932年の満州国建国で日本経済と満州経済の関係が密接になります。1935年になると華北に親日政権が誕生します。日本が資本と技術、経営力を提供し、石炭鉄鋼を開発し、華北が資源の供給となり、重工業、軽工業、化学工業の日本と満州で消費財を供給…

フランクフルト学派

フランクフルト学派は西欧マルクス主義、知識人向けのマルクス主義といわれ、1923年ドイツのフランクフルト大学内に設立された「社会研究所」が起点となっています。初代所長はマルクス主義者のカール・グリュンベルクで、彼の死によって1930年にホ…

戦後になって民主主義になったというウソ

戦前は民主主義ではなく、戦後になってGHQが日本を変え日本国憲法が定められ民主主義になりました、と私は教えられて育ちました。ああ、GHQってありがたかったのか。戦前はひどかったのか。日本人は解放されたのだ、と思って大人になりました。 ポツダ…

第二次ノモンハン事件

1939年(昭和14年)6月からの戦闘が第二次ノモンハン事件と呼ばれるものです。 6月17日、ソ連軍司令官ジューコフは越境禁止命令を解除し、満州国諸点を爆撃。地上軍は満州軍を攻撃。日本軍は6月27日にハルハ河を越えて蒙古領内のタムスク飛行場…

東中佐の突撃 − 第一次ノモンハン事件

第一次ノモンハン事件で捜索隊(偵察任務のほか攻撃任務も行う)の東中佐ら19名は敵に包囲され、突撃攻撃を試みます。部隊の飯島少尉は戦車に飛び乗り、乗員を刺殺、次の瞬間に胸に弾が貫通し、もはやこれまでと敵戦車上で割腹しました。東中佐は日本刀を…

第一次ノモンハン事件

1938年には外蒙古(モンゴル)から満州へ166件の越境事件が起こり、1939年にはいると1月に来襲してきたソ連軍を逮捕。2月から4月にかけて17件の越境事件が起こります。 5月4日、外蒙古兵がノモンハン地区を襲撃、5月11日、外蒙古軍がが…

中国大陸史上初の法治国家「満州」

満州国は建国以来、国内の法を整備し、遵法精神の普及につとめ結果、中国大陸史上初の法治国家が整います。これには裁判官、警察官の増員と教育が必要で日本から満州へつれてくるのと、国立新京法制大学に日本人、満州人の学生を入学させ育成します。こうし…

民主党は既に立ち往生か

5分でわかる民主党マニフェスト(2009年衆院選)総点検 〜財源が足りない!赤字国債増発するのはナゼ?〜 http://blog.livedoor.jp/kawase_oh/archives/51580238.html ■所要額(増額要因):合計16.8兆円 (内訳) 1.子ども手当・出産支援: 5.5兆円 2.…

すばらしかった日本の教育 − 台湾

台湾の日本統治時代を知る人の著書にはいずれも日本教育のすばらしさを書いています。これは制度だけでなく、教師の教育にかける情熱、教育の質の高さを称賛しています。 台湾で行われた科目を拾ってみますと算数、理科、会話、音楽、体育、国語、地理、歴史…

戦前、天皇は神だったのか

戦前は天皇は神とされ、皆狂わされて戦争へ向かっていった・・・これが私が受けてきた教育です。でもよく考えると、戦前の日本人の教養ってそんな程度?文明人じゃなかったの?というレベルの話で、私の祖父母ってそんなバカだったのか?と考えるとそれはな…

張鼓峰事件

1938年(昭和13年、康徳5年)の7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰(ちょうこほう)で発生した満州とソ連の国境紛争です。日本は日中戦争が既にはじまって1年たっており、ソ連は外蒙古(モンゴル)に大量のソ連軍を入れて安全…

ゲンデン首相の悲劇

1932年(昭和7年)、外蒙古(現在のモンゴル人民共和国)はゲンデン首相が就任します。1935年(昭和10年)、スターリンの命を受けたソ連派がハルハ廟事件を起こし、満州国へ侵入しますが、ゲンデン首相は隠れ親日家であり、軍に国境線から数キロ…

ハルハ廟事件

1935年(昭和10年)1月8日、ソ連指揮下の外蒙古(現在のモンゴル人民共和国)軍が満州国境数キロを侵犯し、満州国の監視哨を追い、陣地を作り、人員を拉致し、馬を奪います。年末まで小競り合いの状態となります。前年11月にソモ相互援助秘密協定…

満州への情熱

清朝崩壊後、張作霖の北洋軍閥と孫文、蒋介石の南方革命がクローズアップされますが、連省自治派というもう一つの対立軸がありました。天津の評論家・張弧(ちょう こ)は「東亜永久のために日中露争覇の地である満蒙全域に東亜六族の大同国家を建設し中立を…

明石元二郎

明石元二郎(あかし もとじろう)1864年9月1日(元治元年8月1日) - 1919年(大正8年)10月26日)日露戦争中に、ロシア革命支援工作を画策し、多大な成果をあげ、日露戦争の日本勝利に大きく貢献したことで有名です。ドイツ皇帝ヴィルヘルムは「明石一人で、…

GHQ憲法の罠「政教分離」

天皇陛下は国民の安寧と五穀豊穣を祈り続けられる祭祀王です。昭和天皇は崩御される数日前まで侍従に稲のみの具合や小麦の取り入れ具合のことばかり尋ねられたといいます。天皇陛下の祈りは「私」でないはずです。しかし、憲法の定める「政教分離」によって…

GHQ憲法の罠「国民主権」

私は子供の頃、日本で誰が一番偉いか?というような冊子を読んだ覚えがあり、最終的に国民主権だから国民が一番偉い、というようなことが書いてあったと記憶しています。昭和22年に文部省が「あたらしい憲法の話」を中学一年生用に発行しています。これに…

騙されたリットン調査団

満州事変について中華民国政府の提訴をうけて1932年2月よりリットン調査団が調査を始めますが、それまでの国際連盟の空気は日本よりむしろ全国を統一しきれないでいる支那の弱体ぶりにたいして批判的であったといいます。 内田満鉄総裁は「唯一の解決方…

清朝皇帝溥儀、満州へ

1911年、辛亥革命が勃発し、清国の18省のうち、14省が独立宣言し、孫文は中華民国臨時政府を樹立します。清朝の第12代皇帝宣統帝は政治取引によって退位を余儀なくされ、清朝が滅亡します。溥儀は皇帝の座を追われても北京の紫禁城(しきんじょう)…

満州建国

1932年1月、関東軍作戦参謀石原莞爾は満州現地人の政治能力を評価し、満蒙領有論を後退させ、独立建国論への転向を表明しました。関東州も全部返納し、日本の機関は最小限に縮小し、新国家に日本人も支那人も区別無く入って行くこと、新国家で活動した…

テロリストを英雄にする韓国

韓国では日帝支配に抵抗した安重根(アン・ジュングン)が英雄になっています。1909年10月26日、ロシア蔵相と会談するためにハルビンを訪れていた初代韓国総監伊藤博文を暗殺したということからです。韓国には安重根義士記念館があり、彼の遺品や書…

朝鮮の差別社会と中朝国境の朝鮮族

1910年の日韓併合前の朝鮮は国王を権力の頂点として、王族、両班、中人、常民、賤民の順の階級差別社会であり、賤民は更に奴婢、俳優、医者、巫女、白丁などに分かれていました。両班がいわゆる貴族のようなもので、国王の名をかりて暴政をしいていまし…

満州事変

1931年9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄路線を爆破。満州事変が勃発します。 このとき、関東軍の兵力は仙台第二師団を基幹とする14,500人でした。これも条約によって満州在留邦人23万の生命と財産を守るために決められた数が駐屯して…