満州史

満映の甘粕

満州に見た夢。それは歴史に刻まれた。 大正12年(1923年)9月16日、関東大震災の混乱の中、無政府主義者の大杉栄が殺害され、裁判の結果、憲兵麹町分隊長・甘粕正彦大尉が有罪となり10年の実刑判決となりました。この甘粕大尉は後に満州に渡り、…

満州の甘粕

孤独な男は満州にすべてをかけた。 大正12年(1923年)9月16日、関東大震災の混乱の中、無政府主義者の大杉栄が殺害され、裁判の結果、憲兵麹町分隊長・甘粕正彦大尉が有罪となり10年の実刑判決となりました。甘粕大尉は3年で出所し、昭和2年、…

白人国家の満州侵略計画

白人どもは満州を狙っていた。 昭和6年(1931年)9月18日の柳条湖事件をきっかけに満州事変が勃発しました。そして翌年、日本関東軍主導のもと満州国が建国されました。 国際連盟はリットン調査団を派遣します。そして出た結論は「満州国を認めない…

満州は安住の地、天国だった

理想郷だった満州。 1911年辛亥革命以降、支那大陸は混乱が続き、満州は軍閥が支配し、治安が悪く、民衆は重税や掠奪に苦しめられていました。そして日本の権益は侵害されていきました。一方、満州の本来の主である清王朝最後の皇帝溥儀は満州行きを目指…

ラストエンペラー溥儀、満州国皇帝へ

満州の正当な統治者、清朝皇帝・溥儀。 昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発。同11月、天津の日本租界にいた清王朝最後の皇帝溥儀は天津を脱出し、満州へ向かいました。 溥儀の家庭教師をしていたジョンストン博士 「11月13日、上海に戻…

解放された満州

満州は日本が侵略したわけではない。満州国は民衆が望んだこと。 1911年辛亥革命以降、支那大陸は混乱が続き、群雄割拠の時代に入りました。満州では張作霖の奉天軍閥が力を持っており、統治していました。奉天軍閥は塩税とアヘン収入が主でしたが、内戦…

満州事変、そして満州制圧

満州事変は何だったのか。 1911年の辛亥革命によって支那大陸は動乱の時代を迎えました。日露戦争によって数万の日本人の血と引き換えに日本は満州鉄道などの権益を持っていましたが、支那人は自分たちはロシアの侵略に対し、一滴に血も流さなかったにも…

堪忍ならぬ、満州事変勃発

満州事変は侵略ではない。 日露戦争によって数万の日本人の血が流れ、満州はロシアの侵略から守られました。その血と引き換えに日本は満州鉄道などの権益を得ることができました。しかも日本はこの地に産業をおこして繁栄のもとを築き、関東軍によって治安を…

惨殺された中村大尉 〜 満州事変への道

なぜ満州事変が起こったのか。戦後語られない真実。 昭和6年(1931年)5月、日本軍参謀本部は対ソ戦争に備え、興安(こうあん)嶺方面の兵要地誌調査のため、中村震太郎大尉を派遣しました。中村大尉はチチハル南方で旅館を営む騎兵の井杉延太郎予備役…

迫害された朝鮮人 〜 満州事変への道

満州事変の真実。朝鮮人が迫害されたことも大きな要因だった。 吉林省の延辺朝鮮族自治州は満州帝国時代には間島(かんとう)省といい、この名称は朝鮮語からの音訳でした。李朝末期には朝鮮北部で干ばつなどの自然災害と大飢饉が発生し、多くの朝鮮難民がこ…

満州事変への道

満州事変、満州建国は満蒙問題の帰結。15年戦争のはじまりというのは嘘。 昭和6年(1931年)9月18日の柳条湖事件に端を発した満州事変はあたかも日本の侵略がここから始まったように言われ、15年戦争の開始というプロパガンダがまかり通っていま…

張作霖爆殺事件の謎

河本大佐犯行説は本当か。 1911年の辛亥革命によって支那大陸では清国は消滅し、共和国が出来ましたが、群雄割拠の不安定な状態が続いていました。満州では張作霖軍閥が力を持ち、日本の関東軍が後援していました。 昭和3年(1928年)4月、蒋介石…

皇帝は自ら満州へ行った

ラストエンペラーで有名な皇帝溥儀は満州国を望んだ。 1924年10月、支那では馮玉祥(ふう ぎょくしょう)によるクーデターが発生し、北京の紫禁城にいた清王朝の皇帝溥儀(ふぎ)は紫禁城から追放され、11月29日に北京の日本公使館に入り、日本政…

紫禁城を脱出したラストエンペラー

満州国建国の流れは既に大陸にあった。 1911年10月、支那大陸では「武昌起義」といわれる清朝に対する反乱がおき、清朝は崩壊へとつながりました。辛亥革命です。翌年は清の18省のうち、14省が独立を宣言し、孫文を臨時大総統に選び、中華民国臨時…

通化大虐殺

日本人が大虐殺された歴史は抹殺されました。 昭和21年(1946年)2月3日に支那共産党に満州国通化省通化市は支那共産党軍に占領されていましたが、中華民国政府の要請に呼応した日本人が蜂起しました。しかし、計画は事前に露見していました。ろくな…

通化事件に巻き込まれた流転の王妃

日本人が大虐殺された通化事件に巻き込まれた浩妃。 満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)に嫁いだ侯爵嵯峨実勝と尚子夫人の第一子、嵯峨浩(さが ひろ)は昭和20年(1945年)日本敗戦によって満州の地に取り残されました。そして、…

通化事件と藤田大佐

通化事件に藤田大佐は関与していなかった。 通化事件(つうかじけん)とは昭和21年(1946年)2月3日に支那共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた支那共産党軍と朝鮮人民義…

愛新覚羅溥傑と嵯峨浩

結婚とはなんでしょうか。お見合い結婚より恋愛結婚のほうが幸せですか?政略結婚は不幸なのでしょうか。 満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)と侯爵嵯峨実勝と尚子夫人の第一子、嵯峨浩(さが ひろ)昭和12年(1937年)4月3日には東…

皇帝古き故郷へ帰る

満州王朝の復活。 昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発。奉天特務機関長の土肥原賢二は天津にいた清朝最後の皇帝、溥儀のもとを訪れ「今こそ清朝を再興すべきときです。是非、満州へおいでください。日本は陛下を全面的に支援いたします」と語…

ジャイアンを懲らしめろ 〜 満州事変

ならずものを退治しろ! 昭和6年(1931年)の満州事変は関東軍が侵略目的で突然起こしたものではありません。張軍閥の執拗な嫌がらせから発生したものです。条約違反、日系工場の強制閉鎖、設備破壊、鉱山採掘の禁止、日本人に対する土地貸与の禁止、森…

ラストエンペラーの変貌

漢人の所業に激怒したラストエンペラー。 ラストエンペラーの呼称でよく知られる清朝第12代皇帝、愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)は1911年の辛亥革命を経た後も、北京の紫禁城に住むことが許されていました。ところが1924年11月にクーデタ…

満州王朝から見た満州建国への道

満州王朝は独自の意思で歩んでいった。その先に日本がいた。 1931年(昭和6年)に上海の米国の副領事として支那にわたったラルフ・タウンゼントは支那の混乱ぶりを以下のように書いています。 「これは世界史上類例のないことである。血の海に膝までつ…

ラストエンペラー

満州王朝の視点でも歴史を見る必要がある。 映画になったのでご存知の人も多いでしょう。愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)清朝第12代にして最後の皇帝で初代満州帝国皇帝です。清朝皇帝についたのは1908年10月です。わずか3歳だったので、摂政…

オトポール事件

日本のシンドラー樋口 1936年(昭和11年) 11月 日独防共協定 1937年(昭和12年) 12月 第1回極東ユダヤ人大会 樋口、安江が出席 1938年(昭和13年) 1月 関東軍「現下ニ於ケル対猶太(ユダヤ)民族施策要領」を策定 3月 オトポール…

徳王の悲劇と内蒙古大虐殺

支那による蒙古人大虐殺があった。 昭和20年8月15日、日本の降伏により、内蒙古に危機が訪れます。日本の内蒙古駐留軍は武器、弾薬を蒙古軍に提供すると徳王に伝達しましたが、日本軍と蒙古軍の間には距離があり、支那共産党軍が既に分断しており無理な…

内蒙古の独立

蒙古も満州も支那ではない。 昭和16年(1941年)8月4日、内蒙古自治邦が成立。内蒙古の事実上の独立が行われました。万里の長城以北の西側は蒙古で現在の東北と呼ばれる地域が満州人の聖地でした。蒙古と満州は支那ではありません。 1911年、清…

満州事変は侵略ではない

満州事変は自警行為。 満州事変で日本は支那を侵略した・・・大方の人はこんな歴史を信じてしまっています。しかし、なぜ事変が勃発したかはしらないし、満州と支那が別の国であることも知らないでしょう。満州事変は関東軍による自警行為の発動であり、満州…

ひん曲がった日本刀

小学生の頃だったと思いますが「ひん曲がった日本刀」というのを読まされた記憶があります。それを思い出して探したところ草土文化より「ぼくもわたしも梅の花」という本の中に収録されていました。松山善次郎という人が憲兵となり満州へ赴任したときの話を…

満洲映画協会

満洲映画協会は満映と略される満州国の国策映画会社です。昭和12年(1937年)に設立。資本金は500万円で満州国と満鉄が50%ずつ出資しました。プロパガンダ映画という評価もありますが、文化的要素も評価されています。 満映には「大杉栄殺し」の犯人とされ…

あじあ号の夢

最高時速120キロ、全車両冷暖房装備の「あじあ号」は昭和9年(1934年)3月に満州で運行を開始しました。それまでは「燕」の最高速95キロが最高だったことからまさに「超」特急でした。 南満州鉄道株式会社は日露戦争の翌年である明治39年(19…