満州は安住の地、天国だった

理想郷だった満州


 1911辛亥革命以降、支那大陸は混乱が続き、満州軍閥が支配し、治安が悪く、民衆は重税や掠奪に苦しめられていました。そして日本の権益は侵害されていきました。一方、満州の本来の主である清王朝最後の皇帝溥儀は満州行きを目指していました。昭和6年(1931年)9月18日に勃発した満州事変はこうした支那大陸の混乱に対しての一つの帰着点だったといえます。我々は「15年戦争」の始まりとして満州事変を教えられていますが、それは大嘘です。

 満州は「五族協和」のスローガンのもと「王道楽土」の理想へ向け、満州人、支那人と、日本の内面指導や投資により発展していきました。

 EUの父と言われたクーデンホーフ・カレルギーの当時の論文
「今日において満州支那全州で最も繁栄し最も発展した地方であり、人口は増殖し、各種工業の隆盛における経済上の一中心である。日本は幾十億の巨額を投資し、支那革命の混乱の間に在って此処に能く治安の別天地を作り、支那全土の各地方より来る幾百万の支那人移民に安住の場所を与えた・・・」

 「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(1931年上海副領事)
「そこに暮らす三千万の中国人には満州国は天国である。中国の領土保全、門戸開放、機会均等を説いたいわゆる『九か国条約』はが結ばれてから十年、一体全体、誰かの役に立ったか。役に立ったとは思えない。逆説的な言い方ではあるが、いくら『条約が破られた』と嘆いたとしても、破られたからこそ、満州に暮らす人に安寧と繁栄がもたらされたのである」

 満州国建国以前、日露戦争によって得た日本の満州の権益は関東州の租借地があり、満州鉄道の付属地がありました。満州事変に至るまで日本官民の努力により近代的な産業地帯となっていました。それ以外の満州の大地は匪賊が跋扈し、軍閥が支配しており、天と地の違いがありました。日本の租借地満州民族の駆け込み寺の存在になっていました。それが満州事変により一気に満州全土に対して治安の安定化が行われ、満州国建国によって国家規模で鉱工業が開発されていきました。

 昭和11年(1936年)4月に第一次産業開発5か年計画が定められ、満州は飛躍期、繁栄期に入ります。電力、鉄鋼、石炭、液体燃料、アルミニウム、鉛、亜鉛石綿、塩、ソーダ灰、パルプ、畜産加工、兵器、飛行機、自動車、車両の増産が図られていきました。満州の熱気を象徴するものに豊満ダムがあります。このダムは吉林省の上流20キロの地点に作られました。貯水面積は620平方キロで琵琶湖大の人造湖が忽然と満州の中央に出現しました。多目的ダムであり、洪水防止、灌漑、飲料水、工業用水、航運、発電に利用されました。このダムの完成後、視察に訪れたフィリピンの外相はその規模と効用の大きさに驚嘆し、「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過している。だが住民の生活向上に役立つものは一つも作っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と歓声を発したといいます。

 日露戦争前の満州は数百万の人口でしたが、辛亥革命のころは1800万人、1915年には2000万人、満州建国6年後の昭和13年(1938年)には3900万人にまで膨れ上がりました。昭和16年には4300万人になっています。年間百万人前後の人間が安住の地、天国、満州目指してなだれ込んでいったのです。



参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(編)
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
添付画像
 新京・大同大街(PD)

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