ラストエンペラーの変貌

漢人の所業に激怒したラストエンペラー


 ラストエンペラーの呼称でよく知られる清朝第12代皇帝、愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)は1911年の辛亥革命を経た後も、北京の紫禁城に住むことが許されていました。ところが1924年11月にクーデターが起こり、皇帝は紫禁城から追い出されてしまいました。そして北京郊外の父親の邸宅(北府)に軟禁されます。溥儀の家庭教師をしていたジョンストン博士他皇帝に忠誠を尽くす側近らは溥儀を脱出させ、ドイツ病院に入り、ジョンストン博士は日本公使館に保護を求めます。ジョンストン博士は英国人ですが、英国は内政干渉と取られるような行動には反対するとわかっていたので、日本に援助を求めたのです。

 日本公使館の芳沢公使はジョンストン博士の申し入れに躊躇しましたが、決断し、公使館の最も良い部屋を提供します。このとき皇帝は北府から脱出に成功していましたが、皇后は脱出できておらず、公使は断固とした態度で交渉して皇后を奪還しました。

 皇帝溥儀は天津の日本租界へ移り、約7年間を過ごします。この頃の支那の情勢は果てしない混乱の中で皇帝の復辟(ふくへき)を望む声が強くでていました。

 支那の有力政治家の唐紹儀(とう しょうぎ)の所見。
満州とシナの統一を結婚にたとえるならば、満州族の征服者たちは、持参品として満州を持ってきたようなものである。したがって、シナの国民は満州の帝室を破棄したけれども、満州は今でも満州族が正当に世襲すべき財産だと思われる。前皇帝の宣統帝(溥儀のこと)は、同地方への統治権を回復することを許されるべきだ」

 これに対して、反満州派は反帝室運動を盛んに行い、皇帝本人を含めて君主制主義者を徹底的に処罰し、死刑にすることを目論んでいました。

 皇帝溥儀本人はというと、特に満州王朝復活に情熱をかけていたわけではなく、君主制主義者と接触を持っていた形跡はありませんし、敵対するものに対しても一言も怒りや不平を漏らしたことがなかったといいます。しかし、こうした皇帝を変貌させる大事件が勃発します。

 1928年7月3日から11日にかけて帝室の御陵が破壊され冒涜されたのです。蒋介石配下の孫殿英の仕業です。副葬の金銀財宝は奪いつくされ、西太后の遺体は屍姦され、彼女の口の中に入れてあった貴重な宝石まで奪われました。蒋介石は孫殿英を不問に付し、賄賂を要求しました。

 この事件により、皇帝は変貌します。このときの皇帝をジョンストン博士は以下のように記しています。
「私が次に皇帝を訪ねたときは、目立った変貌ぶりを見せていた。あまりにも変化が著しいので、皇帝は侮辱された先祖の霊魂と霊的な交わりを持ったのではないか、そして、それまで自国と祖先を辱めたシナに向いていた顔を、三百年前に帝国の強固な礎を築いた国土に向け、満州を注視せよと、先祖の霊魂にせきたてられているのではないか、と思ったほどだ」

 溥儀はこれで清朝の再建を心に誓ったのでしょう。君主制復活を望む世論を追い風にいつかチャンスがやってくると。そして満州事変の少し前から日本軍奉天特務機関長の土肥原賢二が溥儀のもとをご機嫌伺いに訪れるようになり、日本に留学している弟の溥傑(ふけつ)が帰国すると「日本は満州に新国家を建設しようとしているようだ」と耳打ちしてきます。そして遂に満州事変が勃発。土肥原賢二清朝再興を全面支援する」という言葉に溥儀は感動で心が震えたに違いありません。



参考文献
 「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著
 週刊新潮2009.08.13.20「変見自在」『支那に蓋を』高山正之
 「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三著

添付画像
 1902年ごろの天津の絵葉書(PD)
 
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