皇帝は自ら満州へ行った

ラストエンペラーで有名な皇帝溥儀は満州国を望んだ。


 1924年10月、支那では馮玉祥(ふう ぎょくしょう)によるクーデターが発生し、北京の紫禁城にいた清王朝の皇帝溥儀(ふぎ)は紫禁城から追放され、11月29日に北京の日本公使館に入り、日本政府による庇護を受けることになりました。翌1925年2月には溥儀の忠臣・鄭孝胥(てい こうしょ)と日本の支那駐屯軍、駐天津日本国総領事館の仲介で、溥儀一行の身柄の受け入れを表明した日本政府の勧めにより天津市の日本租界の張園に移ることになりました。

 これらの皇帝溥儀の一連の行動は日本が招いたものではありません。溥儀の意思であり、溥儀の家庭教師をしていたジョンストン博士が「北京なら日本公使館が最も安全」と勧めがあり、イギリスの公使もジョンストン博士の意見に賛成していました。

 1928年7月、溥儀にとって生涯忘れることの出来ない大事件が勃発しました。帝室の御陵(お墓のこと)が爆破され、冒涜されたのです。御陵には莫大な量の宝石や貴重品が埋葬されており、それが奪われ、棺は爆破され、西太后の遺体はずたずたに切り刻まれ遺骨が四散しました。皇帝の使者が御陵に訪れたとき、目にした光景は筆舌に尽くしがたいほど忌まわしいものだったといいます。この事件の首謀者には国民政府の将校もいましたが、刑罰を受けることなく、掠奪品の保持も許されました。そして国民政府は皇帝に対して遺憾の言葉すら発することはありませんでした。

 ジョンストン博士
「私が皇帝を訪ねたときは、目だった変貌ぶりを見せていた。あまりにも変化が著しいので、皇帝は侮辱された先祖の霊魂と霊的な交わりを持ったのではないか。そして、それまで自国と祖先を辱めた支那に向いていた顔を、三百年前に帝國の強固な礎を築いた国土に向け、満州を注視せよと、先祖の霊魂にせきたてられているのではないか、と思ったほどだ」

 このとき溥儀は支那と決別し、満州王朝の復権を決心したことでしょう。この頃、溥儀を皇帝にしようと清朝系の人たちが「復辟(ふくへき)運動」をおこしており、皇帝溥儀と遂にベクトルが一致しました。

 我々日本人は戦後教育と戦後言論空間に洗脳され、日本軍が暴走して満州を侵略したという認識を持っている人が多いと思いますが、こうした満州王朝復権の流れが別にあったわけで、この歴史は知られないようにされてしまっています。ジョンストン博士の著書「紫禁城の黄昏」など岩波出版は改竄を行うという手まで使っています。

 日本は日露戦争で得た南満州の権利が張学良軍閥によって侵害されていきました。日本人への土地貸与の禁止、森林伐採権や鉱山採掘権などの否認、関東軍の撤兵要求、満鉄の接収など、要求はエスカレートするばかりでした。また当時日本国民であった朝鮮人に対する迫害はひどいものでした。この窮状を打破するには武力による解決もやむなしという気運が関東軍を覆っていきました。

 そして昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発しました。このときには既に奉天特務機関の土肥原賢二大佐が天津の工作を行っており、溥儀にも「ご機嫌」伺いと称して何度も訪れていました。事変をきっかけに遂に土肥原大佐は「今こそ清朝を再興すべきときです。ぜひ満州へおいでください。日本は陛下を全面的に支援いたします」と溥儀に語りました。日本は満州の権益を守るため安定した政権が満州に欲しい、溥儀は満州王朝を再興したい、日本と満州王朝の利害が一致しました。そして満州国が建国されたのです。

 後の東京裁判で溥儀は関東軍は私を無理やり拉致連行して満州へ連れて行った」と述べていますが、これは真っ赤なウソであり、溥儀の弟の溥傑(ふけつ)は「兄の溥儀が満州事変で、日本人に連れられて天津から満州へ脱出したのは、われわれの利害と日本の利害が、双方一致したからだ」と述べています。ジョンストン博士も「皇帝は本人の自由意思で天津を下り満州へ向かったのであり、その旅に忠実な道連れは鄭孝胥と息子の鄭垂だけであった」と著書に記しています。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 祥伝社黄金文庫紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン(著)/中山理(訳)/渡部昇一(監修)
 WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
参考サイト
 WikiPedia愛新覚羅溥儀

添付画像
 1917年張勳のクーデター(12日間で失敗)復辟時の溥儀(PD)

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