満州の甘粕

孤独な男は満州にすべてをかけた。


 大正12年(1923年)9月16日、関東大震災の混乱の中、無政府主義者大杉栄が殺害され、裁判の結果、憲兵麹町分隊長・甘粕正彦大尉が有罪となり10年の実刑判決となりました。甘粕大尉は3年で出所し、昭和2年、婚約者であった服部ミネと結婚しました。ミネは殺人犯となってしまった甘粕をずっと待ち続け、甘粕が婚約解消を3度申し出ても頑として受け入れず、その果ての結婚でした。やがて二人はフランスへ旅立ちます。甘粕大尉は軍籍はもうありませんでしたが、陸軍から費用が出ていました。そして昭和4年2月末に帰国。そして今度は7月に満州へ向かいました。

 昭和4年(1929年)の満州は張学良軍閥が実権を握り、蒋介石国民党に帰順し、条約違反、国際法違反に該当する反日抗日を繰り広げていました。甘粕大尉は奉天憲兵分隊構内の軍属官舎内に起居し、妻の旧姓である服部を名乗りましたが、北京や天津から来る郵便物には「奉天日本憲兵隊気付 甘粕国士閣下」と書かれていたので隊内では「大杉事件の甘粕大尉」ということを知っていました。

 「殺人鬼」・・・満州へ行っても甘粕大尉にはこの視線がついて回りました。「国士」と称されど、人を殺すという恐ろしいことが出来る人、と誰でもそういう目で見てしまうでしょう。
 甘粕大尉が心を打ち解けて話ができた人に関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐がいます。二人とも酒豪で板垣大佐は甘粕を「甘粕君」と呼び、甘粕大尉は板垣を「おやじさん」と言って酒を酌み交わしていました。
 ある暑い夏のこと、うだるような大陸の暑気の中、板垣大佐と甘粕大尉は宿舎で酒を酌み交わし、話が盛り上がって深夜まで呑んでいましたが、当直がお替りの酒を持って二人の居る部屋に入ると、甘粕大尉は目に大粒の涙を浮かべ肩が小刻みに震え、慟哭していました。板垣大佐は無言のまま頷きながら甘粕大尉を見据えていたといいます。どうした話でそうなったのかわかりませんが、甘粕大尉にとって板垣征四郎は心を許せる数少ない人だったということです。

 昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発。関東軍は張学良軍を奉天から駆逐しました。9月21日、ハルビン朝銀と日本総領事館に爆弾が投下されるという事件が起こり、関東軍ハルビン派兵を軍中央に打診します。しかし、軍中央と政府は不拡大方針でありノーという回答でした。それからも爆弾事件は続出しました。これは実は甘粕大尉が関東軍ハルビンに進出する理由をつくるために行った謀略であり、ナンバーのない車で夜のハルビンに出没して爆弾を投じ、ある時はピストルを乱射したといいます。もし捕らえられた場合は爆弾で自決する覚悟だったと思われ、当時を知る関東軍の将校は「甘粕は命を捨ててかかっていた」と述べています。軍籍もなく、肩書きもなく、世間からは「殺人鬼」と後ろ指さされ男が満州に命をかけたわけです。

 甘粕大尉はラストエンペラーで有名な清朝皇帝・溥儀の警護の大役を行っています。栄口で皇帝を出迎え、湯崗子温泉に匿い、その後、旅順の大和ホテルに匿いました。皇帝は甘粕大尉に感謝し、「自分はいま貧しくて、何の礼もできない。せめてこれを記念に」といってカフス・ボタンをはずして甘粕に差し出しました。甘粕は「礼を受ける理由はない」と言い、返そうとしましたが、側近から「わが国では、貴人からの贈り物を返すことはできない習慣です」といって止められました。後日、甘粕は友人に「心無いことをした」と語ったといいます。

 昭和7年(1932年)3月、満州建国。甘粕大尉は警務司長となり、次いで宮内府諮議となり裏の男から表の男になっていきました。昭和12年4月には、協和会という建国理念の普及、日満連携の強化を目的とした会の総務部長に就任しました。そのテキパキとした仕事さばきと、よくお偉いさんが使う「善処します」「考えておきます」といった責任逃れの言葉は使わず実行力を発揮するところは人々の尊敬を集めました。

 甘粕大尉には日本政府と満州国政府から勲章が授与されましたが、甘粕大尉は「刑余者だから」と固辞しました。甘粕大尉をよく知る人は「全く私心のない人だった」「寝てもさめても”祖国のため”以外を考えなかった」「満州国を立派に育てたいと心から望んでいた」と語っています。



参考文献
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)

添付画像
 甘粕正彦 昭和15年(PD)

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