満州事変、そして満州制圧

満州事変は何だったのか。


 1911年の辛亥革命によって支那大陸は動乱の時代を迎えました。日露戦争によって数万の日本人の血と引き換えに日本は満州鉄道などの権益を持っていましたが、支那人は自分たちはロシアの侵略に対し、一滴に血も流さなかったにも関わらず、満州の地で排日侮日運動を展開し、条約違反、国際法違反を繰り返し、日本の権益を否定しはじめ、当時日本国民であった朝鮮人を迫害し、中村大尉を惨殺するという暴挙に至りました。そして昭和6年(1931年)日本の関東軍によって満州事変が勃発しました。

 「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(1931年上海副領事)
「1931年9月18日、事件が起きた。日本では強硬派が主流派となり、中国を憤る声が強まり、古老の幣原の提唱する穏健派の平和愛好派は後退した。一方、在中米英の官民の大勢はこうである。『中国人は今回、相手を間違えた。この数年、米英人に対してはやりたい放題だったが、同じ手を日本に使ったのが間違いだった。日本人は手強いよ。自ら蒔いた種だ。我々が何年もやるべきだと言っていたことを日本がやってくれた』」

「長年営業妨害をされてきたビジネスマンが晴らせなかった恨みをついに日本が晴らしてくれた、そういう意見(米公使への意見)であった。『頼むぞ、日本軍。徹底的にやっつけてくれ』と熱い思いがこもっていたのである」

「長きに亘る無政府状態、風見鶏の軍閥、排外主義官吏、過激学生秘密結社等が結託し、自らの悪事を隠すため暴徒を扇動する。これに日本の堪忍袋の緒が切れたのである。もちろん、満州の地に日章旗を打ち立て、新帝国を樹立する夢もあったのは確かである。あれだけ挑発行為を仕掛けられ、泣き寝入りすることを良しとしない者が日本軍には少なくなかった。しかし、『もしも』の話ではあるが、もし中国政府が外国権益の破壊運動を地下で扇動しないで、日本の権益が保護されていたなら、満州を征服などしなかったかもしれない」

 26万の張学良軍に対して日本関東軍はわずか1万あまり。それでも、関東軍南満州の主要都市を次々と占領。張学良軍閥は「無抵抗」を掲げながら、遼寧省南西部の錦州では張学良が軍を集結させ、2万の兵と砲70を擁していました。関東軍作戦参謀の石原莞爾は自ら飛行機に乗り錦州を爆撃しました。

 更に関東軍は11月には抵抗する馬占山(ばせんざん)軍と激しい交戦の結果、チチハルを占領し、翌昭和7年2月にはハルビンを占領しました。

 昭和7年(1932年)2月、石原莞爾は東京へ行き満州国建国の理念と理想を説いて回りました。
満州国を理想郷とせねばならない。新たに建設さるる満州は、支那のための失地にあらず、日本のための領土にあらず、日支両国共同の独立国家であるとともに諸民族協和の理想郷である」

 そして昭和7年3月、満州国建国。

 前出 ラルフ・タウンゼント
「あそこ(満州)に暮らす約三千万の中国人には満州国は天国である。(中略) 中国人はただ働けて束縛されずに生きられれば、どんな旗がはためこうと全く気にしない。懐具合がよくて家族が無事でいれば後はどうでもよいのである。台湾、朝鮮、大連統治を見れば、日本は満州国を立派な国にしてくれるであろう。万が一、不具合があったとしても、追い出した連中、常軌を逸した暴君どもよりははるかにましである」



参考文献
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)

添付画像
 中国東北三省(濃い赤)東四盟+旧熱河省の一部(赤)外満洲(薄い赤)(PD)
  満州は現在、ロシアと中華人民共和国に侵略されている状態にあることがわかる。

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