惨殺された中村大尉 〜 満州事変への道

なぜ満州事変が起こったのか。戦後語られない真実。


 昭和6年(1931年)5月、日本軍参謀本部は対ソ戦争に備え、興安(こうあん)嶺方面の兵要地誌調査のため、中村震太郎大尉を派遣しました。中村大尉はチチハル南方で旅館を営む騎兵の井杉延太郎予備役曹長、ロシア人ローコフ、蒙古人の包某の4人で偵察行を続けていました。6月下旬にはトウ南(チチハルの南)に姿を現す予定でしたが、7月に入っても姿を見せません。そこで関東軍参謀の片倉衷(かたくら ただし)が潜行捜査にはいりました。

 中村大尉一行は6月25日に張学良軍に逮捕、拘禁され、拷問にかけられ、山中で銃殺され、その上、石油をかけられて焼かれたことがわかりました。奉天の林総領事は遼寧奉天)省長、張学良参謀長に詰問しましたが、シラをきったため、実力調査を本国へ申請しました。ところが幣原外相は相変わらずの軟弱で、あくまで外交交渉でカタをつけようとしました。

 事件の真相が日本国民に知らされたのは8月に入ってからでした。マスコミに発表されると日本国民は激昂し、満州問題に解決に向けて世論は盛り上がりました。

 後に満州問題を調査したリットン調査団報告
「中村事件は他の如何なる事件よりも一層日本人を憤慨せしめ、遂には満州国に関する日支懸案解決のため実力行使を可とする激論を聞くに至」

 8月下旬の満州は事実上交戦直前の状態となり片倉参謀にいわせると「山雨至らんとして風楼に満つる」という状態でした。

 朝日新聞社説 昭和6年8月18日
「(前略)今回我が現役将校外1名に対する未曾有の暴虐きわまる惨殺事件が満州支那官憲の手によってなされ、その驚くべき事実が暴露するにいたったのは、支那側の日本に対するけう慢(あなどるという意味)の昂じた結果であり、日本人を侮蔑し切った行動の発展的帰着的一個の新確証であるのだ。(中略)今回の出来事は、平和の日に土賊鎮圧の任務を有しつつ同地方の開こんに当たっている鄒作華部下の正規兵によって行われたもので、日本側は旅行券の所持はもちろん条約上からいっても旅行の上に何ら手落ちはなかったのである。然るに不法にも捕縛銃殺、所持品全部を略奪した上、罪責をおほふため、死体を焼くに至り、土賊といえども敢えてせざる残虐をほしいままにしたのである。(中略) 支那側に一点の容赦すべきところは無い。わが当局が断固として支那側暴虐の罪をたださんこと、これ吾人衷心(ちゅうしん)よりの心である」

 度重なる排日侮日、条約違反、国際法違反、万宝山での朝鮮人迫害などが積もり積もって、とうとう中村大尉殺害事件によって沸点に達しました。

 8月3日、東京新橋の湖月で陸軍首脳部が会食を行いました。満蒙問題について話し合いが行われました。しかし、会議は揺れに揺れてまとまりません。この席上に関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐が出席していました。そして板垣大佐は朝鮮軍の神田参謀に耳打ちしました。

「今年の10月にはやる」

 関東軍参謀の石原莞爾の描いた満蒙問題を一気に解決する計画は10月を待たずに実行されることになります。それには朝鮮軍に応援を頼む必要があり、朝鮮軍にしても間島地方の抗日運動を抑え、朝鮮半島に影響がないようにしなければなりません。

 張学良側が中村大尉殺害を全面的に認めたのは9月18日の午後3時のことでした。しかし、時既に遅く、この夜、柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破されます。満州事変の勃発です。



参考文献
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)

添付画像
 中村震太郎(左)・井杉延太郎(右)(PD)

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