愛新覚羅溥傑と嵯峨浩

結婚とはなんでしょうか。お見合い結婚より恋愛結婚のほうが幸せですか?政略結婚は不幸なのでしょうか。


 満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)と侯爵嵯峨実勝と尚子夫人の第一子、嵯峨浩(さが ひろ)昭和12年(1937年)4月3日には東京の軍人会館(現九段会館)で結婚式を挙げました。いわゆる政略結婚というものです。結婚の話がきたとき浩は以下のように回想しています。

「今の方はね、考えも及ばないことと思いますけど、その時代は、男は皆第一線に出ているのだから、お国のために役に立つのであれば、と両親は観念いたしまして、逆らうことはできません。イエスとかノーとか、そんな事どころじゃありません。お国の役に立つならば行かなくてはと・・・こういう運命に入ってきたんだから、と私も覚悟しておりました」

 政略結婚といえば聞こえは悪いですが、当時は厳しい国際環境であり、日本人は「公」の精神を持っていました。今のような個人主義と全く違うわけで、現代感覚で当時を見てしまうと本質を見誤るでしょう。

溥傑が兄に書いた手紙より
「あとは仕組まれた政略結婚を互いの愛情と理解と同情で真に一対一の人間としての結婚にすることです。彼女が絵を描くことも私は気に入りました」

 お二人には「覚悟」というものが感じられます。運命を受け入れる覚悟さえ決めればあとは最大限の幸せへ向けて二人で努力する。一旦覚悟を決めているから困難も乗り越えられる、という感じですね。現代では「愛があるから」「愛さえあれば」とよく言いますが、覚悟はないように思います。

 溥傑殿下は昭和4年(1929年)に日本の学習院に留学し、昭和8年(1933年)3月、同高等科卒業。同年9月、陸軍士官学校入学、昭和10年(1935年)7月、同校を卒業しています。性格は優しく、朗らかで情に深く、楽天的というところでしょうか。日本敗戦によって満州を追われ、日本に向かった溥傑殿下は浩妃に向かって「今度こそ親子水入らずで暮らせるね。明日はもう日本だから、洗面用具も要らないよ」と言ったといいます。このあたりが楽天的な性格を物語っています。

 日本敗戦後、溥傑殿下は兄皇帝溥儀とともにソ連軍につかまり抑留され、中共に戦犯として扱われました。浩妃は皇帝溥儀の正室(皇后)婉容妃と支那大陸流転の日々を送ることになります。浩妃は何とか日本に戻ることができましたが、その後、娘の慧生が交際していた同級生大久保武道とピストル自殺するという悲劇に見舞われます。(天城山心中) 溥傑殿下と浩妃が再開を果たしたのは16年の後、昭和36年(1961年)のことでした。広州の駅で再開した二人は言葉が出ず、浩妃は黙って頭を下げるばかりで、溥傑殿下もうなずくばかりであったといいます。そして二人は再び夫婦として暮らし、添い遂げることになります。政略結婚、そして16年の離別があったにも関わらずです。浩妃の姪は「伯父と伯母の生活を見ていると、とても政略結婚で結ばれたとは思えないほど仲が良くいたわりあっている」と述べています。

 昭和62年(1987年)6月20日、浩妃は溥傑殿下に看取られながら波乱の生涯を閉じました。溥傑殿下はそれから7年後の平成5年(1994年)に北京で逝去しました。浩妃と溥傑殿下の遺骨は溥傑殿下の生前からの希望により、娘、慧生の遺骨とともに日中双方によって分骨され、山口県下関市中山神社境内にある摂社愛新覚羅社に納められ、中共側の遺骨は三人共に妙峰山上空より散骨されました。



参考文献
 「愛新覚羅浩の生涯」渡辺みどり
 新人物往来社歴史読本」『愛新覚羅浩』渡辺みどり
参考サイト
 東京紅團「愛新覚羅浩さんの足跡」
   http://www.tokyo-kurenaidan.com/aishinkakura.htm
 WikiPedia愛新覚羅溥傑」「嵯峨浩」

添付画像
 愛新覚羅溥傑と嵯峨浩の婚儀。1938年(昭和13年)4月3日、軍人会館にて。(PD)

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愛新覚羅浩 Part1.avi
http://www.youtube.com/watch?v=AC6RJwTckHY