満州事変への道

満州事変、満州建国は満蒙問題の帰結。15年戦争のはじまりというのは嘘。


 昭和6年(1931年)9月18日の柳条湖事件に端を発した満州事変はあたかも日本の侵略がここから始まったように言われ、15年戦争の開始というプロパガンダがまかり通っていますが、全くのデタラメです。満州事変、そして満州建国は満蒙動乱の一つの着地点です。

 昭和3年、満州軍閥張作霖が爆死すると、息子の張学良がその跡を継ぎます。彼は国権回復運動につとめ激しい排日運動を展開し、日本の満鉄に対して二本の並行線を完成させました。このことは条約違反ですが日本の言論空間は隠しています。武装警官が日系の工場を襲って閉鎖を命じ、設備を破壊したり、鉱山の採掘を禁止して坑道を壊したり、日本人への土地貸与を禁止するなど60に及ぶ法令を発しました。このほか、森林伐採県、鉱山採掘権の否認、関東軍の撤兵要求、満鉄の摂取なあど運動はエスカレートしていきました。
 これに対して日本の幣原外交は「対支不干渉」が柱となっており有効な外交政策が打てず「軟弱外交」と言われていました。昭和5年におきた間島の暴動では日本人、朝鮮人が襲撃を受けたにも関わらず、幣原外交は警察官増強は日支対立を深めるとの理由から応援警官を引き揚げさせるなどして在満日本人から激しい抗議が起こっています。

 奉天では数万の張学良軍に対して関東軍はわずか2000人程度であり、万一の場合は兵はもちろん日本人居留民も一気にやられてしまうような環境下で、張学良軍の飛行機がこれ見よがしに日本軍兵営の上空を低空で示威飛行し、しきりに挑発していました。

ラルフ・タウンゼント(1931年上海副領事)「暗黒大陸中国」より
「(張学良は)日本との条約を勝ってに破棄しだした。日本は、いわゆる軟弱外交と非難された男爵幣原が外務大臣であった。幣原は『中国政府との交渉は寛容と忍耐が求められている』と発言している。
 この間、中国人は何をしていたか。例によって反日運動を盛り上げるネタにしたのである。そこで『軟弱幣原外交は全く通じない中国人の暴虐ぶりは減るどころか激増しているではないか』と大日本帝国陸海軍は噛み付いた。何も今に始まったことではない。いずこの国も中国人には恩を仇で返されてきたのである」

 日支懸案
  昭和2年 31件
  昭和3年 37件
  昭和4年 77年
  昭和5年 95件

 軟弱外交の結果、支那人の侮日行為、鉄道妨害、日支官憲衝突事件など増加の一途をたどっていきます。特に朝鮮人は迫害され、昭和3年から5年にかけて支那人との対立紛争は100件を数えたといいます。昭和6年2月「鮮人駆逐令」によって満州から朝鮮人が追い出される事態になり、朝鮮人たちは行き場を失い、万宝山に入植しようとしました。ここで、7月に支那人と衝突する事件が発生しました。(万宝山事件) 同じころ、地図作成のために興安(こうあん)嶺方面を偵察中の中村大尉が張学良軍に捕らえられ殺害される事件が発生しました。

 朝日新聞 南鮮版 昭和6年9月12日付
支那問題に対する 輿論(よろん)はますます硬化す 内鮮人一様に憤慨 中には取り越し苦労する者もある」
「【京城】中村大尉事件に対して鮮内における内地人側の輿論(よろん)はますます硬化しているが朝鮮人側の輿論は果たして内地人側と同一歩調をとっているか・・・右に対する情報を総合すると朝鮮人側も支那の不遜な態度に対しては内地人同様憤慨している・・・」

 日本の軟弱外交に対してエスカレートする張学良の反日侮日に世論は沸騰していきました。沸点で起こったのが満州事変です。そして満州国建国が終着点なのです。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
 SAPIO 2010.5.26「朝日新聞<朝鮮版>の研究」水間政憲
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)

添付画像
 軍旗(旭日旗)を掲げ自動貨車で進軍する日本陸軍の歩兵連隊 昭和6年(PD)

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