満州史

日本のシンドラー 東條英機

昭和13年(1938年)2月、ナチス・ドイツの迫害から逃れた大量のユダヤ人難民の第一陣がシベリア鉄道に揺られて満州国の最北端の満州里駅のすぐソ連側にあるオトポールに到着しました。その数は2万人にまで膨れ上がります。ソ連は難民の受け入れを拒…

人命軽視のノモンハンのソ連

ノモンハン事件で国境の河を越してきたソ連軍を撃退したところ、高台にいたソ連軍は退却して来る味方の部隊を火炎放射器で焼き払ったという実目談があります。またソ連軍は退却しても5,6百メートル手前で停止したというのもあります。督戦隊がいたのです…

ノモンハン戦の日本兵の手記より

日本兵士は陣中日記というのを書く習慣があったようです。これは本来はよろしくないことのようで、戦場で倒れた兵士の日記から軍の動きが知られてしまうからです。1939年のノモンハン事件でも兵士が書いた陣中日記があります。ただ、陣中日記というのは…

発展した満州経済

1932年の満州国建国で日本経済と満州経済の関係が密接になります。1935年になると華北に親日政権が誕生します。日本が資本と技術、経営力を提供し、石炭鉄鋼を開発し、華北が資源の供給となり、重工業、軽工業、化学工業の日本と満州で消費財を供給…

第二次ノモンハン事件

1939年(昭和14年)6月からの戦闘が第二次ノモンハン事件と呼ばれるものです。 6月17日、ソ連軍司令官ジューコフは越境禁止命令を解除し、満州国諸点を爆撃。地上軍は満州軍を攻撃。日本軍は6月27日にハルハ河を越えて蒙古領内のタムスク飛行場…

東中佐の突撃 − 第一次ノモンハン事件

第一次ノモンハン事件で捜索隊(偵察任務のほか攻撃任務も行う)の東中佐ら19名は敵に包囲され、突撃攻撃を試みます。部隊の飯島少尉は戦車に飛び乗り、乗員を刺殺、次の瞬間に胸に弾が貫通し、もはやこれまでと敵戦車上で割腹しました。東中佐は日本刀を…

第一次ノモンハン事件

1938年には外蒙古(モンゴル)から満州へ166件の越境事件が起こり、1939年にはいると1月に来襲してきたソ連軍を逮捕。2月から4月にかけて17件の越境事件が起こります。 5月4日、外蒙古兵がノモンハン地区を襲撃、5月11日、外蒙古軍がが…

中国大陸史上初の法治国家「満州」

満州国は建国以来、国内の法を整備し、遵法精神の普及につとめ結果、中国大陸史上初の法治国家が整います。これには裁判官、警察官の増員と教育が必要で日本から満州へつれてくるのと、国立新京法制大学に日本人、満州人の学生を入学させ育成します。こうし…

張鼓峰事件

1938年(昭和13年、康徳5年)の7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰(ちょうこほう)で発生した満州とソ連の国境紛争です。日本は日中戦争が既にはじまって1年たっており、ソ連は外蒙古(モンゴル)に大量のソ連軍を入れて安全…

ゲンデン首相の悲劇

1932年(昭和7年)、外蒙古(現在のモンゴル人民共和国)はゲンデン首相が就任します。1935年(昭和10年)、スターリンの命を受けたソ連派がハルハ廟事件を起こし、満州国へ侵入しますが、ゲンデン首相は隠れ親日家であり、軍に国境線から数キロ…

ハルハ廟事件

1935年(昭和10年)1月8日、ソ連指揮下の外蒙古(現在のモンゴル人民共和国)軍が満州国境数キロを侵犯し、満州国の監視哨を追い、陣地を作り、人員を拉致し、馬を奪います。年末まで小競り合いの状態となります。前年11月にソモ相互援助秘密協定…

満州への情熱

清朝崩壊後、張作霖の北洋軍閥と孫文、蒋介石の南方革命がクローズアップされますが、連省自治派というもう一つの対立軸がありました。天津の評論家・張弧(ちょう こ)は「東亜永久のために日中露争覇の地である満蒙全域に東亜六族の大同国家を建設し中立を…

騙されたリットン調査団

満州事変について中華民国政府の提訴をうけて1932年2月よりリットン調査団が調査を始めますが、それまでの国際連盟の空気は日本よりむしろ全国を統一しきれないでいる支那の弱体ぶりにたいして批判的であったといいます。 内田満鉄総裁は「唯一の解決方…

清朝皇帝溥儀、満州へ

1911年、辛亥革命が勃発し、清国の18省のうち、14省が独立宣言し、孫文は中華民国臨時政府を樹立します。清朝の第12代皇帝宣統帝は政治取引によって退位を余儀なくされ、清朝が滅亡します。溥儀は皇帝の座を追われても北京の紫禁城(しきんじょう)…

満州建国

1932年1月、関東軍作戦参謀石原莞爾は満州現地人の政治能力を評価し、満蒙領有論を後退させ、独立建国論への転向を表明しました。関東州も全部返納し、日本の機関は最小限に縮小し、新国家に日本人も支那人も区別無く入って行くこと、新国家で活動した…

満州事変

1931年9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄路線を爆破。満州事変が勃発します。 このとき、関東軍の兵力は仙台第二師団を基幹とする14,500人でした。これも条約によって満州在留邦人23万の生命と財産を守るために決められた数が駐屯して…

万宝山事件と中村大尉殺害事件

1928年から1930年にわたり在満朝鮮人と支那人との対立紛争は100件を超え、国民党は「鮮人駆逐令」によって満州から朝鮮人を追い出そうとします。行き場を失った朝鮮人は長春の西北約20キロの万宝山に入植しようとしました。ところが吉林省政府…

満州の日本の権益を否定する国民党

1929年(昭和4年)世界恐慌が起こり、南満州鉄道株式会社は創業以来の赤字に転落します。張学良は国民党に帰順しており、これに乗じて国民党は日本が条約に基づいて得た正当な権益を否定する法令を次々に発布します。張学良はこの年、北満州鉄道をソ連…

満洲某重大事件

1928年6月、蒋介石の北伐によって満州の軍閥の張作霖は奉天へ向かう途中に爆殺されます。日本の権益を無視する張作霖を見限ろうとする排張論の河本大佐の仕業とされてきました。しかしながら最近ではコミンテルン陰謀説も浮上しています。またこの頃、…

尼港事件

尼港事件(にこうじけん)は1920年(大正9)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、中国人四千名から成る、共産パルチザン(遊撃隊)という革命派によって黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在の…

田中メモランダムとノモンハン事件

田中メモランダム(田中上奏文)第26代内閣総理大臣田中義一が1927年(昭和2年)、昭和天皇へ極秘に行った上奏文であり、支那侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服するための手順が記述されている捏造文書です。1929年に南京…

ノモンハーニー・ブルドー・オボーの戦闘

1939年、満州国とモンゴルの国境紛争であるノモンハン事件が勃発しました。この舞台となったノモンハーニー・ブルドー・オボーですが、ブルドーは水が湧き出して小さな湿地や沼ができる場所のことをいい、オボーは塚のことをいい、日本が最初のノモンハ…

赤化洗脳された日本人

終戦後、シベリアの抑留者にはソ連による赤化洗脳の嵐が待っていました。1946年から「民主運動」の名目で実施されました。「スターリンを選ぶか天皇を選ぶか」と問われ、天皇と答えたものは「帰国させない」「反動は白樺の肥料だ」と脅迫を受けました。…

満州、北朝鮮からの引き揚げ

日本敗戦後、満州でソ連は軍関係者を根こそぎシベリアへ連行したあと、一般人の引き揚げに関しては無関心でした。一方米国は日本人は全員日本に帰還させるという方針を堅持し、1946年8月からも中共地区からも日本人の送出を始める協定が成立します。国…

満蒙開拓団の悲劇

1945年6月、根こそぎ動員によって満州の開拓団の男たちは次々と召集されていきました。関東軍は南方に兵力を持っていかれたので、その補充でしたが、対ソ戦も意識していたと思われます。4月にソ連は日ソ中立条約を延長しないことを一方的に決定して日…

流転の王妃

流転の王妃と呼ばれる嵯峨浩様は大正3年(1914年)、嵯峨家の侯爵嵯峨実勝(さがさねとう)と尚子夫妻の第一子長女として東京で生まれました。嵯峨家は明治天皇と縁続きの名門です。浩様は昭和12年(1937年)満州帝国皇帝愛新覚羅溥儀の弟君、愛…

王道楽土の満州

満州国というと「日本の侵略の象徴」「日本の傀儡国家」「日本の植民地」「関東軍が暴走した」というイメージが刷り込まれていると思いますが、一方向の見方はもういいかげんいいでしょう。昔、元大本営参謀だった瀬島龍三氏がテレビ出演したとき遠い目をし…

満蒙開拓移民

東京西新宿の住友ビル48階の「平和祈念展示資料館」で「遥かなる紅い夕陽」という森田拳次さんのお母さんの手記をもとにしたマンガ冊子がおいてあります。一人一冊自由に持って帰ることができます。森田拳次さんのお母さんは大陸の花嫁として千振という新…

ロシアに侵略された清国

ロシアのアジア侵略のルートの一つにシベリアから満州へ侵略するルートがあり、シベリアでは毛皮を求めて、カムチャッカ及び黒竜江へ到達します。当然、日本も侵略のターゲットで18世紀半ばにはカムチャッカから千島列島に入り、北海道を脅かします。 20…

満州は支那ではない

現在多くの日本人の認識は満州は支那の領地であり過去戦争で日本が侵略したと思っているでしょう。現在の中共は満州史を「東北史」と位置づけて、支那の一部の歴史のように装っていますが、満州が支那に領有されたのは戦後で、それ以前はありません。 満州は…