満映の甘粕

満州に見た夢。それは歴史に刻まれた。


 大正12年(1923年)9月16日、関東大震災の混乱の中、無政府主義者大杉栄が殺害され、裁判の結果、憲兵麹町分隊長・甘粕正彦大尉が有罪となり10年の実刑判決となりました。この甘粕大尉は後に満州に渡り、満州建国を裏表で支え、満州映画協会(満映)の理事長となりました。

 昭和14年(1939年)11月1日、満映本社に初出勤した甘粕は9時きっかりに庶務課長を呼び、重役や部長はどうしているか聞くと、「いつも10時ごろには出てきます」と答えが返ってきました。甘粕は車を出して皆を呼びにいくよう指示を出し、幹部らは恐る恐る理事長室に集まります。

甘粕「足で歩いてくる人たちが9時に出勤しているのに、自動車の迎えを受ける人が時間を励行しないのは間違いです。明日から重役も部長も9時に出勤してください」

 挨拶など抜きでいきなり幹部を叱りつけたかと思うと、今度は全社員を行動に集めるよう指示します。そして「私は甘粕正彦です。今度、理事長に就任しましたから、よろしくお願いします」とたったこれだけの挨拶をしました。職員一同を代表して総務部長が前に進み出て「わが満州国の生みの親、建国の父として余りに有名な甘粕先生を理事長として迎えましたことは、私ども一同の大きな喜び・・・我々粉骨砕身、社業の発展に努力し、満州の地に骨を埋める覚悟をもって・・・」。すると甘粕は「もうよい。やめなさい。やめるのです!」とドスのきいた怒声で遮り満州の功労者というお世辞は私には当たりません。粉骨砕身などという美辞麗句をいくら並べても、心に誠がなければ何もなりません。私たちは日本人ですから、死んだら骨は日本に埋めるのです!」と述べました。

 翌日、総務部長はいきなりヒラに降格。さらに履歴書で高学歴を詐称したものはクビとし、社員の5%がクビになりました。人事の大異動が行われ、高い地位から降格するもの、いきなり月給がハネあがるものがでます。しかし、クビにしたものは再就職の面倒をちゃんと見たほか、徴兵を理由にクビになっていた社員は復職させるようにしました。

 甘粕はスタジオの整備をはじめ。ドイツから高額の機械を買い入れ、スタジオの稼働率を上げる計画をたて実行しました。そして無味乾燥な国策映画より民衆が楽しめる劇映画に主力を注ぎました。

 甘粕は前科ものアカ思想のものでも有能であればお構いなしに採用しました。その中には日本共産党が資金調達のため川崎第百銀行大森支店を襲ったギャングの首謀者、大塚有章がおり、「人殺しの次はギャングか。何だかヘンな会社になってしまったな」とボヤく社員もいたといいます。

 李香蘭(山口 淑子)というスターも甘粕の下で誕生しました。「富貴春夢」「冤魂復仇」「熱血彗心」と立て続けに出演して評判となり、満映東宝の合作「東遊記」では原節子高峰秀子沢村貞子藤原鎌足と共演しました。

 甘粕は強気の企業家として部下に慕われ、満州人、朝鮮人からも尊敬され慕われていました。日本からやってきた文化人も甘粕ファンになった人は多く、藤原義江(オペラ歌手)、朝比奈隆(音楽家 指揮者)らはしばしば甘粕を訪ねたといいます。俳優の森繁久彌は新京放送局の職員で満映文化映画のナレーターを務めたことがあり、甘粕についてこう語っています。

満州という新しい国に、われわれ若者と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見てくれた。ビルを建てようの、金をもうけようのというケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようという大きな夢に酔った人だった」

 昭和20年(1945年)8月15日、日本敗戦。甘粕大尉は満映関係者の帰国手配などを終えたあと、20日6時5分、服毒自殺しました。

 森繁久彌
終戦直後、放送局で甘粕さんに会った」「廊下ですれ違うと、珍しく甘粕さんの方から『森繁君』と声をかけてきて『満州はよかったなあ』と握手した。私はとっさに − あ、甘粕さん、死ぬんだな − と直感した。だが何も言わなかった。何もいえなかった」

 甘粕大尉の遺体は20日午後5時、満映の撮影所を出棺。満州人、朝鮮人ら、彼を悼み葬列に従った者は3000人。その長さは1キロメートルにもなったといいます。



参考文献
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)
 ワック出版「歴史通」2010.3『満鉄・満映世界遺産だ』佐野眞一
 新人物往来社歴史読本」2009.9『満州映画協会』清永孝

添付画像
 満映スターたちのアルバム(PD)

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