ラストエンペラー溥儀、満州国皇帝へ

満州の正当な統治者、清朝皇帝・溥儀。


 昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発。同11月、天津の日本租界にいた清王朝最後の皇帝溥儀は天津を脱出し、満州へ向かいました。

 溥儀の家庭教師をしていたジョンストン博士
「11月13日、上海に戻ってみると、私的な電話で皇帝が天津を去り、満州へ向かったことを知った。
 シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。(中略)皇帝が誘拐されて満州へ連れ去られる危険から逃れたいと思えば、とことこと自分の足で英国機先に乗り込めばよいだけの話である。(中略)皇帝は本人の自由意志で天津を去り満州へ向かったのである」

 溥儀はスポーツカーのトランクルームに身を隠して脱出。料亭・敷島で日本の軍服に着換えました。天津軍司令部の車で軍の蒸気船「比治山丸」に乗船し、塘沽(たんく)港外で「淡路丸」に乗り移りました。ここから営口まで猛烈な銃撃を浴びましたが逃げのび、営口埠頭に到着します。そして関東軍が派遣した甘粕正彦が皇帝に付き添い、汽車と馬車に乗り、湯崗子温泉に到着しました。

 そして昭和7年(1932年)3月9日の建国式典で溥儀は満州国執政に就任します。

 ジョンストン博士
「皇帝が北へ向かうと、彼の乗った特別列車はあちこちの地点で停車し、地方官吏やその他の役人達が主君のところへ来て敬意を表するのを許したのである。彼らは御前に進み出て跪き、話しかけるときは『皇帝陛下』と呼んだ。列車が奉天近郊で初期の満州皇帝の御陵を通り過ぎようとしたとき、ある感動的な出来事が起こった。皇帝が乗車したまま先祖の御霊に敬意を表することができるように、列車がしばし停車したのである」

 昭和9年(1934年)3月、溥儀は満州国皇帝に就任しました。ついに清朝の血を引く溥儀が故郷、満州の地で皇帝に就いたのです。

 ジョンストン博士
「皇帝はシナの国民から拒絶され、追放された今、満州の先祖が、シナと満州の合一の際に持ってきた持参金の『正当な世襲財産』を再び取り戻したまでのことだ」

 支那満州は別の土地であり、満州の正当な主は清朝の血を引くものということです。

 昭和10年4月、皇帝溥儀は日本へ向かいました。戦艦比叡に乗船し、三隻の軍艦が護衛しました。航海4日目には日本海軍の艦艇70隻が、壮大な演習を繰り広げてみせました。横浜に入港すると100機の航空機の編隊が溥儀を歓迎しました。東京駅には天皇陛下自ら出迎えられるという破格の待遇でした。溥儀は特に貞明皇太后大正天皇妃)の慈母のような暖かいもてなしに感動したといいます。溥儀は歌舞伎を鑑賞し、京都を訪れ、君民一体の日本、皇室の伝統と気品と威厳を学んで帰国しました。

 皇帝溥儀の帰国後の演説
「満日親善のため、私はこう確信する。もし日本人で満州国に仇をなす者がいれば、それは日本の天皇陛下に不忠であり、もし満州人で日本に仇をなす者がいれば、それは満州国の皇帝に不忠である。もし満州国皇帝に不忠なものがいれば、とりもなおさず、日本天皇に不忠であり、日本天皇に不忠なものがいれば、とりもなおさず、満州国皇帝に不忠なのである」

 満州国はこれより10年、日本敗戦まで皇帝溥儀の権威の下、発展と繁栄を続けました。



参考文献
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
 祥伝社黄金文庫紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン(著)/ 中山理(訳)渡部昇一(監修)
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)
添付画像
 「執政」就任式典(PD)

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