通化事件と藤田大佐

通化事件に藤田大佐は関与していなかった。


 通化事件(つうかじけん)とは昭和21年(1946年)2月3日に支那共産党に占領されたかつての満州国通化通化市で中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた支那共産党軍と朝鮮人義勇軍南満支隊(李紅光支隊)による日本人及び支那人に対する虐殺事件です。

 作家の松原一枝さんが終戦後まもなく、横浜の野毛山あたりのマーケットである女性より「乾燥芋」買ったとき、その女性が通化からの引き揚げ者と知り話をしたとき、女性は事件についてこう述べました。

終戦後になって、あの大佐が、つまらないことを考え出してから、何も知らない日本人も沢山死んだ。軍人は弾に当たって死ぬのが仕事ですが、私の亭主はあんな馬鹿なことで死んだ」

 つまらないこと、馬鹿なことと言っているのは中華民国政府に呼応して蜂起したことを言っており、そのリーダーが日本陸軍125師団参謀長藤田大佐であり、そのようなことをしたから自分の亭主は死んだのだと言っているのです。

 佐藤和明著「少年は見た 通化事件の真実」より
「こんな無謀な暴動さえ起こさなければ、無実の人たちが殺されることはなかった。関東軍の参謀長(第125師団)という、いわば作戦を立てる責任者までした人が、いったい何を考えていたのだろう。こりかたまった考え方を変えることは難しいとしても、なぜ冷静に兵力の分析ができなかったのだろう」

 実は藤田大佐は事件には関与していません。藤田大佐は支那共産党軍の司令部が置かれていた竜王ホテルに軟禁されていました。蜂起を企てていた中華民国軍と呼応した日本人は藤田大佐の名声と頭脳、誰もが心服する人間性を把握しており、大佐を旗印にしないと蜂起に同調する日本人が出てこないと考えていたので、藤田大佐奪還を計画していましたが、それを知った藤田大佐は奪還予定日よりも前に単独で竜王ホテルを脱出しました。おそらく、藤田大佐は日本側には武器がなく、支那共産党軍に対して勝ち目はないという判断で蜂起には加わらないという意思を示したのだと思います。
 藤田大佐は栗林家にかくまわれますが、ここは蜂起軍の秘密アジトにもなっていました。それでも藤田大佐は蜂起に加担しませんでした。もはや蜂起軍にとっては「藤田大佐」の名さえ使えればよく、姿無き藤田が日本側リーダーとして水面下を動いていったのです。

 藤田大佐は日本軍の特殊訓練を受けた柴田朝江という女性と栗林家に潜伏しており、この柴田朝江の証言によってこのときの状況は明らかになっています。

藤田大佐「その時(蜂起が起こったとき)こそ、本当の日本人救済ができるのです。私は日本人の無事引き揚げが完了したら、自分だけ残ります」「蒙古に行くつもりです。蒙古にも残留日本人がいます。その人たちのことも考えなければ − 」

 しかし、藤田大佐の読みは甘く、知らない間に中華民国軍より最高軍事顧問に任命されており、事件前に蜂起に向けて姿無き藤田大佐の密書が日本人の間に出回りました。しかしこの計画は支那共産党軍のスパイによって露見し、蜂起軍は重火器を備えた支那共産党軍の待ち伏せに会い、あえなく敗退しました。そして首謀者は藤田大佐とされたのです。藤田大佐はその後、逮捕され、見せしめのため百貨店で見世物にされ、その後、肺炎で亡くなりました。



参考文献
 「少年は見た 通化事件の真実」佐藤和明著
 「通化事件松原一枝
WikiPedia通化事件

添付画像
 「通化事件松原一枝著の表紙。ひげの人が藤田大佐。


広島ブログ クリックで応援お願いします。