ジャイアンを懲らしめろ 〜 満州事変

ならずものを退治しろ!


 昭和6年(1931年)の満州事変は関東軍が侵略目的で突然起こしたものではありません。張軍閥の執拗な嫌がらせから発生したものです。条約違反、日系工場の強制閉鎖、設備破壊、鉱山採掘の禁止、日本人に対する土地貸与の禁止、森林採筏の禁止、鉄道運行妨害、強盗、鉄道施設の略奪、電線の略奪・・・軍閥は日本に対してだけではなくソ連に対しても北満州の鉄道を強制回収したため紛争が起こっています。
 次第に張軍閥の要求は次第にエスカレートし、関東軍の駐兵権を無効とする撤兵要求、満鉄の接取も要求してきます。現地在留日本人は危機感を募っていきます。特に迫害されたのは朝鮮人「鮮人駆逐令」を出して追放にかかります。そして万宝山事件で抗争が起こります。朝鮮人は激昂します。同じ時期の1931年6月、中村大尉殺害事件が発生します。中村大尉は対ソ戦を想定した地図を作成するために偵察を行っていましたが、奉天軍につかまり、凄惨なリンチの末に惨殺されました。これも日本国民を激昂させました。 
 政府はあてにならない、関東軍がやるしかない、という雰囲気が広がりますが、しかし関東軍は1万強しかおらず、しかも鉄道沿線に配置されているので分散しています。対する張学良軍は奉天に5万、満州各地合わせると26万5000人でした。それに張軍は歳入の80%を軍事費にあて、優秀な装備を持っていました。これではのび太ジャイアンです。ジャイアンが嫌がらせや暴力をふるってくるのを待って、反撃したのでは一方的にやられてしまいます。そこでドラえもんの秘密兵器が登場します。東京から24センチ重砲を密かに奉天へ運ばせたのです。

 それでも兵力の差は歴然としており、頭のいい”静ちゃん”に作戦を練ってもらいます。張軍兵士は夜間になると武器を持って営外にでて強盗、強姦など繰り返して市民から批判されていたため、張学良は兵器の悪用を警戒し、昼間の演習がすむと夜間は兵士たちから銃器をとりあげて、武器庫におさめてしまうことがありました。そこで関東軍は夜間の攻撃を計画し、さらに、事前に夜間演習をを繰り返しておいて、油断させます。そして9月18日深夜、柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発したのを合図に張学良と配下6700が駐屯する北大営の門に向けてドラえもんの秘密兵器をぶっ放します。張軍は突然の攻撃に武器を倉庫にしまっていたため大掛かりな反撃ができずほうほうの態で逃げていきました。その後の作戦は電光石火のように進み、翌年はじめには満州全土を制圧しました。”静ちゃん”の作戦勝ちです。

 こうして、奉天では商人や市民の代表たちが自治委員会をつくり、支那とは絶縁して民意にもとづく新政権の樹立を目指しました。奉天に呼応する形で遼寧吉林の各省も独立宣言を行いましたが、昭和7年(1932年)3月、奉天からの代表700人のほか、満蒙青年同盟、吉林省朝鮮人、東省特別朝鮮人、モンゴル人、各種団体などが参加して「満州建国宣言」を行い、支那からの離脱を宣言しました。

 さて、ジャイアンはどうしたのか。ある消息筋から(米国上海副領事 ラルフ・タウンゼント)
「張学良の話である。『満州の王』気取りで、支那に『満州には手を出すな』と警告まで出すほどになった。こうまでされては支那政府も黙ってはいないと思うのだが、何もできない。ただ「反逆者、無法者」としただけである。だから張は我が物顔に満州で暴れまわっていた。ところが日本軍がわずか1万400の兵で、しかもたった数日で20万の張軍を撃退した。負けた張学良はどうなったか。広大な満州から搾り取ったから金に不自由はない。選りすぐりの美女20〜30人を秘書として従わせ、イタリア旅行へと洒落込んだのである」・・・ こんなもんです。



参考文献
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三緒
 「騙しの交渉術」杉山徹宗著
 「暗黒大陸中国の真実」ラルフ・タウンゼント著
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 万宝山事件と中村大尉殺害事件 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21555060.html

添付画像
 熱河作戦(PD)
 
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満州国樹立一周年記念
http://www.youtube.com/watch?v=WymWH_JS3KM