あじあ号の夢



 最高時速120キロ、全車両冷暖房装備の「あじあ号」は昭和9年(1934年)3月に満州で運行を開始しました。それまでは「燕」の最高速95キロが最高だったことからまさに「超」特急でした。

 南満州鉄道株式会社は日露戦争の翌年である明治39年(1906年)に2億円の資本金で設立されました。満州事変までの間、満州では日本、ロシア、支那、イギリスの資本で各々鉄道が敷かれていましたが、無秩序な競争や駅などは各々勝手に建設し、運営も非合理なものでした。
 満州国が成立すると鉄道法が制定され鉄道規格などの統一と国有化が行われます。満州国満州鉄道と「満州国既成鉄道の満鉄委託経営に関する契約」を結び、満鉄は各国の鉄道を買い上げ満州国内の鉄道を一元的に請け負って経営し、鉄道交通を近代化していくことになります。

 十河信二東海道新幹線を提案し、完成させた第4代国鉄総裁です。十河は、昭和5年(1930年)南満州鉄道の理事に就任しています。満州事変勃発後、内田康哉総裁を関東軍司令官・本庄繁に面会させ関東軍と協力していくことになります。この頃、国内の路線は狭軌軌間1067ミリメートル)で、後藤新平などは世界と同様の標準軌への変更を主張していました。しかし、満鉄はもともとロシアの敷設した広軌軌間1524メートル)だったものを国内と同じ狭軌にしてしまいました。
 十河は戦後、昭和30年に国鉄総裁に就任し、政治的手腕をふるい、東海道新幹線の建設を国会で承認させ、島秀雄技師とともに新幹線建設計画を主導・推進しました。十河の頭には「あじあ号」がありました。そして後藤らが主張した標準軌が頭にありました。狭軌による複々線が主流の中、広軌の新幹線を建設し、満州の大動脈だった満鉄と同様に日本国内の大動脈・東海道新幹線を完成させます。(総裁退任後に開通) あじあ号の夢は戦後の日本の成功に大きく貢献したといえるでしょう。



参考文献
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 「歴史読本」2009.9『十河信二』尾崎俊
 「歴史通」WiLL2010.3『満鉄・満映世界遺産だ』佐野眞一
参考サイト
 WikiPedia十河信二

添付画像
 あじあ号(牽引機関車)を描く満州国の「鉄道一万キロ突破」記念切手のうちの4分切手

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