満州王朝から見た満州建国への道

満州王朝は独自の意思で歩んでいった。その先に日本がいた。


 1931年(昭和6年)に上海の米国の副領事として支那にわたったラルフ・タウンゼントは支那の混乱ぶりを以下のように書いています。
「これは世界史上類例のないことである。血の海に膝までつかり、村といわず町といわずことごとく絞られ荒らされ、死者、拷問、餓死者が毎年数百万もでるのに、何万という大学での学士さまは手をこまねいているだけで何もしない国。こういう国は世界のどこにもない。学士様の誰一人として、信頼の置ける指導者を探そうと考えもしないというのも他に例がない。
 指導者はすべて己のことしか頭にない。世のため人のため尽くそうにも、支持者がいない。何かをやろうとすると、いつ後ろから刺されるかわかったものじゃない」「どこの世界も腐敗、堕落はあるが、支那のような100%腐敗、堕落している国はない」

 
 支那は1911年の辛亥革命清朝皇帝が退位し、共和国ができましたが、群雄割拠状態で混乱が続いていました。民衆には満州王朝復活の声があがってきていました。
 
 1919年9月9日付ノース・チャイナ・デイリー・メール紙
「共和国の記録には、楽しいことが何もない。今日は支那の北と南が一触即発の状態にある。これから導き出される結論はただひとつである。支那で共和主義を試みたものの、ふたを開けてみれば能無しだとわかったということだ」
君主制を支持するとても強力な結社があり、共和政体の政府に決して満足することはなかったけれども、はっきりとした理由があって、ここ数年間は沈黙を保っていることを忘れてはならない」
「前皇帝の復辟(ふくへき)を望み、ひそかに支持する人たちが強く主張するのは、共和制主義者がこの国を破壊しているということだ」

 
 清朝最後の皇帝溥儀の家庭教師をしていたR・F・ジョンストン氏は1919年7月20日に個人的な情報筋から次のような報告を受けたと著書に記しています。

張作霖君主制を復古しようと企んでいるが、その意図は翌年の秋に奉天で若い皇帝を帝位につかせ、同時に日本の保護下で満州を独立国として宣言することだ」

 1922年3月18日付 ノース・チャイナ・ヘラルド紙
「もし張作霖がライバルの呉佩孚(ごはいふ)の勢力との予想される争いで敗れるようなことがあれば、張の国家の政治活動で果たす役割は終わることになるだろうし、そうなれば唯一の逃げ道は、日本の保護下で満州を独立させることしかない」
 
 果てしない混乱の支那で民衆は満州王朝の復活を望み、清朝の聖地に駐留していた日本の関東軍に目がいくのは自然でしょう。R・F・ジョンストン氏はさらに以下を述べています。
「日本が満州の地で二度も戦争をして(日清、日露戦争のこと)獲得した権益を支那の侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が必ず訪れると確信する者は大勢いた。日本と中華民国が抗争すれば、自分たちが待ち望む絶好の機会が訪れるだろうと君主制主義者は考えていた」

 満州事変は予知されていますね。さらにジョンストン氏は日本との提携についても述べています。
「外国の強国と同盟を結ぶのは支那への裏切りだと叱責する人に対しては、君主制主義者は次のように答えることができよう。支那は既に満州人を異民族、すなわち『夷族』であると宣言し、その根拠にもとづいて、満州人を王座から追放したではないか、と。異民族とその家族は、支那にいかなる忠誠も誓う必要はないのである」

 つまり、支那とはもう関係がないから同盟者は自分で選ぶということです。これも当時の状況として非常に重要なことでしょう。支那満州は別なんですね。支那と決裂した満州王朝は、ときが来るのをじっくり待って、やがてやってきた好機、満州事変を利用し、満州王朝を復権させた、それが満州建国であり、満州王朝が関東軍を利用したと言えるでしょう。



参考文献
 「暗黒大陸中国の真実」ラルフ・タウンゼント著
 「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著
 
添付画像
 1900年ごろの北京 Author Salzmann, E.v.
 
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