堪忍ならぬ、満州事変勃発

満州事変は侵略ではない。


 日露戦争によって数万の日本人の血が流れ、満州はロシアの侵略から守られました。その血と引き換えに日本は満州鉄道などの権益を得ることができました。しかも日本はこの地に産業をおこして繁栄のもとを築き、関東軍によって治安を維持したため、支那大陸の内乱の中で平和な別天地として人口は増加し、繁栄しました。しかし、やがて支那人は自分たちはロシアの侵略に対し、一滴に血も流さなかったにも関わらず、満州の地で排日侮日運動を展開し、条約違反、国際法違反を繰り返し、日本の権益を否定しはじめ、当時日本国民であった朝鮮人を迫害し、中村大尉を惨殺するという暴挙に至りました。

 昭和3年(1928年)10月20日、石原莞爾は大連に到着しました。関東軍作戦主任参謀として満州に赴任したのです。石原莞爾は赴任して間もなく満蒙問題解決に向けて「作戦」を考えていました。昭和4年には「北満現地戦術」を書いて張学良軍閥に対しての武力発動やソ連の満蒙への南下に対処する研究を行っていました。その後も「作戦」に不可欠な組織、人物との打ち合わせを余念なく実行。そして昭和6年、万宝山事件、中村大尉殺害事件により沸点に達したとき、石原の「作戦」は発動されました。

 9月1日、石原莞爾は本庄関東軍司令官に「作戦」を説明します。本庄関東軍司令官は「作戦」を黙認。9月15日、奉天において歩兵第二十九連隊、関東憲兵奉天分隊奉天特務機関の夜間出動準備の演習を視察します。「作戦」の予行演習と同時に繰り返し演習して張学良軍を油断させる目的があります。
 ところが、内地の参謀本部から小磯国昭中将と建川美次少将が来るという。石原らは関東軍の不穏な動きを察知して「作戦」止めに来ると判断し、一旦作戦中止を決定。しかし、16日には再び決行を決定。決行日は18日。

 9月18日、止め役の建川美次少将が奉天へ来ると板垣征四郎大佐が出迎え、料亭「菊文」に連れ込みました。綺麗どころの芸者をズラリ揃え、たちまち酒宴が始まりました。「閣下、長旅でお疲れでしょう。仕事の用件は明日ゆっくり伺いますから、今日は思いっきり飲んでくつろいでください。」と言って酒をすすめ、建川少将が酔いつぶれたのを見届けた板垣大佐は、女将を呼んで「あとは頼む」と言い残して引きあげました。

 午後10時過ぎ、奉天に爆破音が轟き、続いて大砲や重砲や銃撃の音が轟きわたりました。止め役の建川美次少将は酔眼朦朧(すいがんもうろう)とした眼で悠然と酒を飲み続け、やがて布団にもぐり込んで寝てしまいました。

 関東軍満州全域あわせても1万人強。対する張学良軍は26万5000であり、奉天だけでも5万人の大軍で、さらに住民から絞り上げた軍閥予算の80%を軍事費にあてて近代的装備を保有していました。石原莞爾は東京から密かに24センチ重砲を奉天に取り寄せており、柳条湖爆破を皮切りに張学良軍の北大営に向けてぶっ放しました。張学良軍は夜間は武器を武器庫にしまうことも計算していました。これにより張学良軍はほうほうの態で逃げ出しました。

 関東軍の夜間攻撃によって張学良軍は520の遺棄死体を残して逃避し、関東軍は飛行機60機、戦車12両を捕獲しました。関東軍の戦死は2名、負傷者は25名でした。

 柳条湖の鉄道爆破は関東軍の河本末守中尉ほか、部下数名で実行されたというのは、河本中尉の所属する川島中隊の2,3の将校からの聞き取りや関東軍参謀花谷正の手記によるものです。しかし、石原莞爾は「永遠の謎」と言うだけでそれ以上は語らなかったといいます。



参考文献
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)
添付画像
 柳条湖の鉄道爆破現場を調査しているところ(PD)

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