迫害された朝鮮人 〜 満州事変への道

満州事変の真実。朝鮮人が迫害されたことも大きな要因だった。


 吉林省延辺朝鮮族自治州満州帝国時代には間島(かんとう)省といい、この名称は朝鮮語からの音訳でした。李朝末期には朝鮮北部で干ばつなどの自然災害と大飢饉が発生し、多くの朝鮮難民がこの地に移住しました。その後、朝鮮人はますます増え、昭和5年には60万人に達していました。ほとんどは貧農層で漢人地主の小作人となりました。

 昭和6年(1931年)2月、支那の国民党会議は朝鮮人の満蒙移住厳禁を決議し、「鮮人駆逐令」によって朝鮮人満州から追放にかかりました。行き場を失った朝鮮人農民のうち43家族、200名あまりは長春の西北20キロの万宝山(まんぽうざん)に入植しようとしました。朝鮮人農民は感慨水路をつくったところ、それが借りていない支那人の所有地を横切っていたため、両者の間に紛争が起こりました。支那人は警察に訴え、朝鮮人の指導者が逮捕されました。朝鮮人側は日本領事館に応援を求め、両者にらみ合いの状態となりました。

 7月1日から支那人農民数百名が水路を破壊し始め、翌2日には日本の領事館警察と衝突し、発砲する騒ぎとなりました。朝鮮半島の新聞は支那不法行為として大々的に報道したため、朝鮮半島各地で排華運動が起こりました。

 大阪朝日新聞付録「朝鮮朝日」南鮮版 昭和6年7月4日付
「万宝山事件で 仁川の朝鮮人憤激し 支那町は刻々に危険 警察青年団も警戒す」
「【仁川】万宝山事件について憤慨した仁川朝鮮人支那人襲撃はその後各所に頻発し、支那街では異常の緊張を見せ、支那人の避難者が続々と集まっている。領事館でも極力収容せんとしているが連絡が取れぬところがある模様である」

 7月5日付同紙
「衝突、破壊、脅迫、傷人、市内の各所に頻発す 支那人街休業の姿 京城(ソウル)の鮮支人衝突事件」
「【京城】(略)朝鮮人およそ20名が支那人を殴打負傷せしめ、さらに同時刻同所付近の支那商店を襲い、窓ガラスを破壊。9時40分ごろいは府内義州通りにおいても支那人1名を殴打負傷させ10時には和泉町では朝鮮人およそ60名が支那人を襲い同様殴打負傷せしめ同20分府内支那人街西小門技芸学校前で朝鮮人約500、支那人凡そ200名が衝突し、各1名宛の重傷者を出し・・・」

「全市に警官隊配置 支那人続々避難す 京城ますます騒然」
「仁川も形勢益々不穏化す。警官隊との小競り合いも始まり支那人の野菜市場も襲わる」

 朝鮮半島のこの暴動は7月9日までに支那人109人が殺害され、生死不明が63人、負傷者160人に達しました。支那側はこの暴動を日本官憲の陰謀だと非難し、排日を更にあおりました。奉天総領事の林領事が張学良、重光公使が国民政府の王廷外交部長と数度の折衝が行われましたが、難航するばかりでした。そうしたところ中村大尉殺害事件が発覚し、日本の世論は沸騰し、関東軍板垣征四郎石原莞爾が行動を起こすことになります。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
 2009.9歴史読本「フォトドキュメント 満州事変」戸部良一
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
 ちくま文庫「甘粕大尉」角田房子(著)
 SAPIO 2010.5.26「朝日新聞<朝鮮版>の研究」水間政憲

添付画像
 平壌支那人排斥暴動(PD)

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