通化事件に巻き込まれた流転の王妃
日本人が大虐殺された通化事件に巻き込まれた浩妃。
満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)に嫁いだ侯爵嵯峨実勝と尚子夫人の第一子、嵯峨浩(さが ひろ)は昭和20年(1945年)日本敗戦によって満州の地に取り残されました。そして、通化事件(つうかじけん)に巻き込まれます。
通化事件とは昭和21年(1946年)2月3日に支那共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で中華民国政府(国民党)の要請に呼応した日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた支那共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)による日本人に対する大虐殺事件です。
通化事件が起こったとき浩妃は支那共産党の公安局の2階に軟禁されていました。この公安局はほとんど満州警察学校の出身の人たちで日本語が達者で親切だったといいます。「万一、国民軍が中共軍と戦うことになれば連れて一緒に逃げますから安心してください。私たちは心から中共軍にしたがっているのじゃありません。ただ食わんがため仕方がないのです」といわれ浩妃は「食わんがため、それも一つの生き方」と思ったといいます。
国民党と旧日本軍人の策略は事前に察知されていました。公安局長が浩妃らの所に現れ、浩の娘、「こ生」(こせい 当時5歳)を抱き上げると、「面白いものが見られるよ、映画にいきましょう」と誘います。浩妃は「外は寒いし、着るものもありませんし」と断りました。局長は浩妃母娘を連れ出して難を逃れさせようとしたと思われます。
2月3日の真夜中、突然バンという銃声が鳴り響き、浩妃は息を潜めているとダダダと凄まじい足音がして一人の男が飛び込んできました。男は「一番乗りの中山、お助けに上がりました」と叫びます。さらにやってきた軍人が「今夜憲兵の工藤が救出に参るはずです。皇后様(一緒にいた皇帝溥儀の皇后・婉容妃のこと)とご一緒にお待ちください」といって窓側にいき、八路軍(共産党軍)と銃撃戦を始めました。しかし、計画は事前に察知されていたので、八路軍は一旦、旧日本軍人らを公安局の中に入れて包囲する作戦でした。そして機関銃で銃撃され、砲撃を受けます、浩妃たちはじっとして身を伏せていましたが、皇帝の老乳母の王焦に砲弾の破片が命中し、右の手首が吹き飛ばされます。乳母は「痛い痛い」と泣きながら血だらけの手で顔を触り、顔が血だらけになりました。この乳母の吹き飛ばされた手首は浩妃の娘・「こ生」のところに飛んできていました。「こ生」は「忘れようとしても、なお血まみれの手首だけは記憶に残っています」と回想しています。
通化事件の蜂起は失敗に終わり、浩妃らは長春(新京)へ送られることになります。ここには浩妃たちの自宅がありましたが、浩妃らは料理屋の大部屋に押し込められました。娘「こ生」は「どうしておうちに帰らないの。お父様が待ってらっしゃるのに」としきりに聞いてきます。浩妃は「もう私たちのおうちじゃなくなったのよ」と何度も言い聞かせました。皇帝溥儀の皇后・婉容妃は事件の恐怖で精神錯乱状態となりました。浩妃はその後、吉林、延吉、佳木斯へとつぎつぎに身柄を移され、流転の日々を送りました。
参考文献
「愛新覚羅浩の生涯」渡辺みどり著
「通化事件」松原一枝著
参考サイト
WikiPedia「嵯峨浩」「通化事件」
添付画像
愛新覚羅溥傑・浩夫妻 毎日新聞社「一億人の昭和史 1930年」より。(PD)
愛新覚羅浩 Part2.avi
http://www.youtube.com/watch?v=m54ybilLKjQ
Part1を見ても通化事件のことはタブーになっていることがわかる。支那人、朝鮮人が加害者で日本人が被害者の歴史は通州事件などをはじめ、戦後、マスコミは徹底的に隠している。