紫禁城を脱出したラストエンペラー

満州国建国の流れは既に大陸にあった。


 1911年10月、支那大陸では「武昌起義」といわれる清朝に対する反乱がおき、清朝は崩壊へとつながりました。辛亥革命です。翌年は清の18省のうち、14省が独立を宣言し、孫文を臨時大総統に選び、中華民国臨時政府が誕生しました。清朝は下野させていた袁世凱(えん せいがい)を呼び戻して総理大臣に任命し、革命派の討伐を命じます。孫文清帝を退位させたら、大総統を袁世凱に譲ると密約したので、袁世凱は皇帝号を廃さず、年金を得て生涯紫禁城で生活するという条件で、宣統帝溥儀を退位させ、清朝は滅びました。この宣統帝溥儀が「ラストエンペラー」といわれる人です。

 ラストエンペラー溥儀は1906年年2月7日生まれ。清朝が滅びたときはわずか6歳でした。支那の共和国(中華民国)が誕生し、北京には大総統がいながら、清の皇帝が存在していたわけです。しかも共和国は溥儀が「皇帝」の尊称を使うことを許していました。王朝の名称が領土の地理を表すわけではありませんから、溥儀は清の皇帝であって、支那の皇帝ではないということです。

 皇帝溥儀は紫禁城の中で成長しました。紫禁城の外に出ることは許されませんでした。しかし、1921年9月30日に皇帝の母親にあたる醇親(じゅんしん)王妃が死去したため、皇帝は紫禁城を出て北京北部の醇親王宅へ行き、亡き母に最後の別れの挨拶をする機会を得ることができました。喪があけて、皇帝は市外を遊覧したいと申し出ましたが、周囲の反対にあい、実現できませんでした。皇帝は今度は自動車を購入し、帝師の病気見舞いに行くことは可能になりました。

 皇帝溥儀は成長していくうちに紫禁城内の生活に嫌気と共和国からもらう「年金」で生きていることに対して屈辱感を覚えていきました。1922年に正妻の婉容、側室の文繍と結婚。1923年2月、溥儀は紫禁城脱出を試みます。これには満州軍閥張作霖が背後におり、皇帝を天津に連れ出し、満州にある先祖の墓所を参拝させる予定でした。しかし、この計画は直前に露見し、紫禁城の門は固く閉ざされてしまったのです。

 北京英字新聞 3月23日
「前皇帝は近々満州奉天行幸され、先祖の墓所を参拝なさるだろうとシナの人々の間では報じられている」
「皇帝は成婚に際し、花嫁を先祖の陵墓に連れてゆくのが古代からの習慣であるが、皇帝と張作霖との関係がどのようになるのかは意見百出であるため、この満州行きの噂が原因で、政界にかなりの動揺が広がっている。ただし、この報道の真偽を確かめることはできない」

 支那では共和国が誕生したと言っても、非常に不安定であり、君主制復活を望む声も多く、政治的に色々な思惑がありました。皇帝が満州に行くということは、満州支那の支配から独立するということを意味しています。満州支那は古来より別の土地であり万里の長城で区切られています。清王朝発祥の地が満州であり、溥儀にとっては故郷になります。

 皇帝溥儀が紫禁城を脱出することが出来たのは1924年の馮玉祥(ふう ぎょくしょう)によるクーデターがきっかけになります。11月5日、馮玉祥の軍隊が城内に侵入し、城を封鎖し、溥儀の電話が切断されました。北京の満州人は皇帝の身を案じ、悪い噂が流れ、パニックになりましたが、皇帝は紫禁城から追放され、父親の邸宅(北府)にいることがわかり、パニックは沈静化しました。

 11月29日、皇帝溥儀は家庭教師のジョンストン博士らと北府を脱出。ジョンストン博士は日本の芳沢公使と交渉し、皇帝溥儀は日本公使館へ入りました。北京では皇帝溥儀の逃亡は大ニュースとなり大騒ぎとなりましたが、芳沢公使は北府に取り残された皇后奪還を決断し、部下の芝浦氏に「絶対に皇后を連れて戻って来い」と厳命し、自身は共和国政府に対して「皇后の行動にどのような拘束も加えないよう」と礼儀正しく、かつ断固とした要求を突きつけました。そして芝浦氏は意気揚々と皇后を連れて日本公使館へ戻ってきました。こうして皇帝溥儀は紫禁城の籠の中から自由の身となり、この約10年後、満州国皇帝に即位しました。



参考文献
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 祥伝社黄金文庫紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン(著)/中山理(訳)/渡部昇一(監修)

添付画像
 清朝皇帝時代の溥儀(右)と、父・醇親王に抱かれた弟・溥傑(PD)

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