解放された満州

満州は日本が侵略したわけではない。満州国は民衆が望んだこと。


 1911辛亥革命以降、支那大陸は混乱が続き、群雄割拠の時代に入りました。満州では張作霖奉天軍閥が力を持っており、統治していました。奉天軍閥は塩税とアヘン収入が主でしたが、内戦のため歳入は不足し、民衆の農作物や家畜などあらゆる物に課税し、5年先の税金まで徴収しました。塩税は日本の租借地だった関東州の5倍もありました。驚くことに税収不足を補うため、財産家の誘拐、処刑ということまでやっています。さらに紙幣の乱発で民の生活は圧迫されていました。年間予算の80%は軍事費にあてて近代的装備を保有していました。

 軍閥というのはもともと犯罪者や逃亡者の集まりからスタートした凶暴な組織であり、規律もなく匪賊と同じ体質を持っており、昼間でも民間住宅に押し入り、ゆすり・たかり・強姦などをおこなって住民の憎悪と反感を買っていました。

 支那大陸では「よい人間は兵隊にはならない」という諺があります。

 「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(1931年上海副領事)
「兵隊ならくいっぱぐれはない。銃剣を振り回せば食糧調達は思いのまま。逆に庶民の方は、さしたる目的もない軍隊がやってきて、いつまでも駐留されると、商いはできなくなり、働き手を徴用され、まじめに働いて得た物まで没収される。これでは仲間に入って略奪する方に回るか、入らずに略奪されるか、二つに一つしかない。
 (軍隊に)入っても月々十か十二メキシコドルのお手当がもらえないことが多いが心配ご無用。鉄砲という『食券』がある。軍律もへったくれもあったもんじゃないから現ナマまで手に入る」

 奉天軍閥のやりたい放題は満州の日本の権益を侵害しました。堪忍袋の緒が切れた日本関東軍は昭和6年(1931年)9月18日に決起。関東軍1万あまりは26万の張学良軍を破り、あっという間に満州を制圧しました。そして満州の民衆は奉天軍閥満州から駆逐されたことに快哉(かいさい)を叫んだのです。ここから満州国建設がとんとん拍子に進んでいったのは民衆が関東軍を敵視しなかったからです。関東軍日露戦争以降、満州に駐留しましたが、ロシア軍や軍閥と異なり、軍律正しく、略奪行為を行わなかったため、その好印象があり、解放軍として迎えられたのです。

 昭和7年(2月16日)、奉天に張景恵、臧式毅、熙洽、馬占山の満州四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織され、東北省区の独立を宣言します。そして3月1日、元首として清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀満洲国執政とし、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞を委員とする東北行政委員会が満洲国の建国を宣言しました。

 日本は満州の治安を守り、満州へ投資し、内面指導を行いました。支那大陸初の法治国家とし、貨幣財政を再建し、国土を開発し、近代都市を建設しました。地下資源を開発し、電力開発を行い、重工業を興しました。近代教育を行いました。支那の内乱を避けて年間約100万人が治安がよく発展していく満州国へやってきました。

 当時、大陸を取材していたフレデリック・ビンセント・ウイリアム
満州とは日本人が出かけていって貪り食った。罪を犯した国だとごく普通の人たちは信じているだろう。日本がそこに行ったのは確かだ。しかしもし諸君が満州へ行けば − 満州国 − 日本はサンタクロースの役をこれまで演じていること、満州人が断然幸福であることを発見するだろう。彼らの古いご主人、ロシアと支那はまあ残酷な親方で、ひどく苦しめられたいたのだ。平和と安全、政府とビジネスの安定、鉄道の建設、都市の建設、病院や学校をもたらしたのは日本だった」



参考文献
 芙蓉書房出版「暗黒大陸中国」ラルフ・タウンゼント(著)/田中秀雄・先田賢紀智(訳)
 光人社「騙しの交渉術」杉山徹宗(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 芙蓉書房出版「中国の戦争宣伝の内幕」たフレデリック・ビンセント・ウイリアムズ(著)・田中秀雄(訳)
参考サイト
 WikiPedia満州国

添付画像
 満洲国の初代内閣(PD)

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国立公文書館 リットン報告に対する外国新聞の論調 昭和7年10月6日陸軍省新聞班
http://www.digital.archives.go.jp/ から検索。

フランス マタン(三日) 調査団が混乱せる支那に於いて認識した事実を報告結論との間には沢山矛盾がある委員会は支那無政府状態よりして日本が斯かる行動に出たことは止むを得ずと認めながら結論では連盟擁護上事実に反した断案を下して居る

フランス プテイバリジヤン(三日) 日本政府が満洲国に対する承認を撤回することを得ない以上リツトン報告の結論は反古となつた

イギリス モーニング・ポスト(三日) 満洲支那人支那政府に好意を持つて居ないことは支那人満洲移住でも知られる

アメリカ 紐育タイムス(三日) リツトン報告は我々の予期して居た如く最も公平且透徹せる見解である

スイス トリビューン 連盟が手を拡げ過ぐるは危険なり 連盟は先づ欧洲を改造すべし

※フランスとイギリスが比較的、日本に好意的。「英国民の大多数は日本に対し同情的」「歴史上よりみるも満州独立は当然のこと。南京政府支那を完全に代表せず」とある。


 国立公文書館の政府のまとめた資料にもイギリス・テレグラフ満州問題はその独立と共に既に解決せられたり」とある。また報告書の矛盾を指摘する論調も目立つ。フランス・マタンは「日本が自力に依り将に延びんとする共産@の魔手に対して満州国を防護せんとするは理由あり・・・」とあり、当時の国際世論がソ連共産主義の南下を脅威としてみていたことがわかる。

 いずれにしろ国際世論は一方的なものではなかった。それを一方的に「日本悪」としてみる日本の言論空間は戦後創られた東京裁判史観、自虐史観以外の何者でもない。