皇帝古き故郷へ帰る

満州王朝の復活。


 昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発。奉天特務機関長の土肥原賢二は天津にいた清朝最後の皇帝、溥儀のもとを訪れ「今こそ清朝を再興すべきときです。是非、満州へおいでください。日本は陛下を全面的に支援いたします」と語りかけました。その後も関東軍からの密使、甘粕正彦が溥儀のもとを訪れ、満州建国のプランを伝えます。

 満州王朝の復興は混乱する大陸で、多くの人が望まれたものでした。また、蒙古(モンゴル)も満州王朝であれば従う意思がありました。
 昭和8年(1933年)ワトソン・デイビス論文 「紫禁城の黄昏」より()はジョンストン博士の注釈
「名目上、内蒙古は依然としてシナに従属している(シナに従属というが、これもまた紛らわしい言い回しで、デイビス氏自身もこのことは認めるだろう)。しかし、いまさら付け加える必要もないけれども、偉大な共和国は騒然とした無政府状態となり、内蒙古では何の実質的な権力も行使できないのである」

「日本は、いつでも自治を約束することで蒙古人すべてを日本の見方につけることができるし、その保護を誓約することで、統一した蒙古国家を樹立することも十分できそうである。このことを重ねて確実にするには、日本が満州国の執政となる満州人に皇帝の称号を再び与えさえすればよいのである。過去を崇める蒙古人なら、誰でも、皇帝溥儀を歓呼して迎えるだろう」

 1931年11月、溥儀は満州へ向かいます。このときのことを溥儀の家庭教師をしていたジョンストン博士は以下のように記しています。
「シナ人は日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったかのように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じるものも大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である・・・皇帝が誘拐されて満州に連れ去られる危険から逃れたいと思えば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話である」

 皇帝は自分の意思で満州へ出発しました。満州建国を阻止したい支那国民党は溥儀の動向を付けねらっています。甘粕正彦が溥儀にぴったり付き添いガードしました。途中の船旅の中で銃撃されたこともありました。

 ジョンストン博士
「皇帝が北へ向かうと、彼の乗った特別列車はあちこちの地点で停車し、地方官吏やその他の役人たちが主君のところへ来て敬意を表すのを許したのである。彼らは御前に進み出て跪き、話しかけるときは皇帝陛下と呼んだ。列車が奉天郊外で初期の満州皇帝の御陵を通り過ぎようとしたとき、ある感動的な出来事が起こった。皇帝が乗車したまま先祖の御霊に敬意を表すことができるように、列車がしばしば停車したのである。
 龍は古き故郷に帰ってきたのである」

 昭和7年(1932年)2月16日、溥儀は満州国執政に就任。国体は民本主義。首都を新京(長春)と定め、王道楽土の建設と五族協和を要領としました。昭和9年(1934年)3月に満州国皇帝に就任しました。年号を康徳と改め、溥儀の紋章は蘭の花となりました。



参考文献
 「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三緒
 「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子

添付画像
 執政就任式典(PD)


広島ブログ クリックで応援お願いします。



満州国皇帝・溥儀即位式
http://www.youtube.com/watch?v=vBZdcwmxL0k