張作霖爆殺事件の謎

河本大佐犯行説は本当か。


 1911年の辛亥革命によって支那大陸では清国は消滅し、共和国が出来ましたが、群雄割拠の不安定な状態が続いていました。満州では張作霖軍閥が力を持ち、日本の関東軍が後援していました。
 昭和3年(1928年)4月、蒋介石の国民革命軍が北伐(北洋軍閥征伐)を開始し、北京にいる張作霖をターゲットにしました。日本は張作霖満州への撤退を勧告しました。そして6月4日、張作霖満州奉天へ向かう途中、列車が爆破され死亡しました。

 この爆殺事件は関東軍の河本大佐の犯行で、河本大佐はこの事件をきっかけに部隊を出動させ、満州を一気に占領しようとしていたと言われていました。ところが平成3年(1991年)12月にソ連が崩壊するといくつかの秘密文書が明らかになり、平成17年(2005年)に出版された「マオ − 誰も知らなかった毛沢東」に次のように書かれていたことから話題になります。

張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているがソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」

 これはアレクサンドル・コルパキジとドミトリー・プロホロフ共著による「GRU帝国」がもとになっており、エイチンゴンとともにゾルゲの前任者サルヌインが深く関わっていたと説明されています。GRUというのはソ連参謀本部情報総局のことでゾルゲ事件で有名なリヒャルト・ゾルゲもその管理下にいた巨大組織のことです。創設時はレーニントロッキーの管轄にありました。

 なぜ、ソ連張作霖を消す必要があったのか?張作霖反共主義であり、ロシアが建設した中東鉄道(旧東清鉄道)を威嚇射撃したり鉄道関係者を逮捕したりしたため、ソ連は遂に張作霖を消すことになり、破壊工作の実力者サルヌインに命令が下り計画、実行したというものです。第一回計画は失敗しましたが、サルヌインはグリーシカという暗号名で上海を暗躍し、モスクワから再度、張作霖暗殺指令がエイチゴンを通じて伝えられました。昭和3年(1928年)初頭の頃と思われます。前年には張作霖の指示によりソ連大使館捜索と関係者の大量逮捕があったことが背景にあります。

 そもそも河本大佐の犯行説も線路脇の土嚢の中に爆薬を仕掛けたことになっており、そこから200メートル離れた守備隊の監視小屋まで伝導コードを引いて、タイミングを合わせて爆破したとされています。しかし、現場の地面に大きな穴が開いてないし、列車も脱線せず、車輪も車台も破壊されていません。列車の屋根が吹き飛び、上を通る満鉄の欄干に被害が出ています。つまり爆発は列車内の屋根あたりだったということです。また伝導コードが現場に残されていましたが、それはあまりにも間抜けな話であり、事件に関わった東宮大尉の証言と思われるものには「爆発後コーを巻き取った」となっています。それなのにコードが残されていました。

 事件はイギリスの情報部も関心を示しており、「ソ連が引き起こした可能性には、一定の形跡がある」としています。
 「張作霖の死に関するメモ」イギリス外務省あて中間報告文書
「調査で爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起爆装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。
 ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇ったと思われる。決定的な判断に達することはできないにしても、現時点で入手できる証拠から見て、結局のところ日本人の共謀があったのは疑いのないところだ」

 さらに、張作霖の息子、張学良は蒋介石の国民党に極秘入党していたことがわかっています。張作霖の死後、張学良が奉天派を束ね、父の政敵だった国民党とさっさと和解しました。昭和3年(1928年)12月29日、奉天城内外では五色旗をおろし、青天白日満地紅旗を掲げました。このとき実に多くの赤旗が混じって翻っていたといいます。

 これらのことを総合するとソ連コミンテルン)指示のもとに列車内に爆弾を仕掛け爆破したのが張学良系統、カモフラージュが河本大佐系統という図式が見えてきます。



参考文献
 PHP新書「謎解き 張作霖爆殺事件」加藤康男(著)
 PHP新書「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)

添付画像
 張作霖乗車の列車が爆破された直後の写真。朝日新聞2008年6月15日の紙面によれば撮影者は朝日新聞社カメラマンであった宮内霊勝。(PD)

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