ラストエンペラー

満州王朝の視点でも歴史を見る必要がある。


 映画になったのでご存知の人も多いでしょう。愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)清朝第12代にして最後の皇帝で初代満州帝国皇帝です。清朝皇帝についたのは1908年10月です。わずか3歳だったので、摂政がおかれました。
 1911辛亥革命が起こります。孫文が臨時大総統となり中華民国臨時政府が誕生します。清朝袁世凱(えんせいがい)を総理大臣に任命し、革命派を討伐させますが、孫文清帝を退位させたら大総統を袁世凱に譲ると密約したため、皇族に優待条件をつけて丸め込んで、皇帝を退位させました。皇帝は北京の紫禁城にはそのまま住み続けてよく、共和国側から維持する予算が支給されることになりました。

 溥儀は紫禁城の中で成長していきます。家庭教師が数人付きますが、その中の一人、英国人であるR・F・ジョンストン氏は溥儀の性格を以下のように述べています。
 
「皇帝は明敏で聡明な知能の持ち主であったが、性格にはまじめな面と軽薄な面とがあった。最初のうちは軽率な面が露呈するのは若さゆえの無責任さが原因であり、成長すれば、そのような子供じみた側面は捨て去るだろうと思っていた。けれども、皇帝の性質を見ていると、消え去ることのない何か分裂したものであるようで、皇帝の中で二つの人格が互いに争っているように思えるときがある」

 後に日本の関東軍板垣征四郎は溥儀と会ったときの印象をこう記しています。
「溥儀、聡明なれど卑しき執着あり」

 この二面性はその後の東京裁判での検事側さえ呆れてしまった証言にも表れています。
 
 溥儀が満州国皇帝になるまで一瞬だけ帝位に復帰したことがあります。袁世凱の死後、1917年に張勲という皇帝を慕う将軍がクーデターを起こし、皇帝を復辟(ふくへき)させています。しかし、直ぐに共和国側に鎮圧されてしまいました。
 
 この後、共和国の政治に民衆は失望していきます。
1919年6月23日ノース・チャイナ・デイリーニュース
増税したことと官吏が腐敗したことにより、国民は満州朝廷の復帰を望むようになっている。満州朝廷も悪かったけれども、共和国はその10倍も悪いと人々は思っている」

1921年曙光(革命はジャーナル誌)
「農業人口10人のうち、8、9人までは読み書きできず、まるで鹿やブタと同様に愚かしいというか嘆かわしい状況である。農民たちは自由が何を意味するのかを知らず、参政権や政府がどのような概念なのかも知らない。(中略)『宣統皇帝陛下(溥儀のこと)はお達者か』そして何度も何度もこのような願いやら不満を聞かされるのだ。『こんな不作で、俺たちは一体どうなるのか。俺たちはいいことなんぞ、一つも起こらない。本物の龍が、天子様がもう一度お出ましにならねばな』(中略) このような無骨な田舎者たちは張勲が帝政復古しなければ満足にしないだろう」

 こうした帝政復活を望む声の中、溥儀は共和国政府から年金をもらって生きていることに屈辱を覚えていきます。これらの歴史を追っていると満州国関東軍によって突然出現したというより、こうした溥儀の思いと民衆の満州王朝復活を望む流れも受けていたことがわかります。



参考文献
 「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著
 「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三著
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子
 
添付画像
 満州国皇帝時代の溥儀(PD)

満州国臨時政府
 http://www.manchukuo.org/index31.htm
 
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