大東亜戦争

日米開戦の「最後通牒」手交の遅延は大使館の怠慢

真珠湾攻撃は「宣戦布告前」に行った日本の騙まし討ちといわれたのは対米覚書「最後通牒」の手交が遅れたことが原因とされています。 外務省はワシントンの野村大使に対米覚書を14項にして発信し、機密保持のため「タイピスト」を使わないように指示がでて…

身を殺して仁をなした日本 〜 タイから

大東亜戦争末期のタイでは連合国で結成された「自由タイ」がタイ国内の反ピブン勢力と連動し、ピブン政権は総辞職することになります。続いてクアン内閣は自由タイの活動を支持しました。日本がポツダム宣言を受諾した翌日の昭和20年(1945年)8月1…

タイと大東亜戦争

1941年(昭和16年)12月7日、日本軍山下兵団は南タイへ上陸してマレイ作戦を敢行すべく航行中でした。坪上貞二駐大使はタイのピブン首相に緊急面会を申し入れます。しかし、首相は国境の空港施設の視察に出向しており不在でした。やむなく日本側は…

日米大海戦構想はおかしかったのか

私は子供の頃、学校で日米戦争で日本は大型戦艦を主力とする決戦構想という古い考えがあった、と教えられた記憶があり、日本軍は発想自体古いというような話でした。 三国同盟と日米戦(昭和15年10月 松尾樹明)GHQ焚書図書開封より わが駆逐艦の戦争上…

日米開戦前の認識

私は昭和16年12月の日米開戦を無謀な戦争を始めたとか、軍が暴走したとか、自殺行為だったとか、教えられましたが、これは日米戦争の結果が本土空襲によるあまりにも悲惨な結果に終わったから「最初から無謀だった」という結果から導かれた論であるのと…

失地回復へ 〜 微笑みの国の逆襲

1914年から翌年にかけてタイのワチラーウット王(ラーマ6世)はナショナリズムを鼓舞する政策にでます。タイでは華僑が経済活動を牛耳っており、得られた利益は支那に還元されてしまい、タイにはメリットがないとして華僑が批判の対象となります。 そし…

植民地に教育は不要だった

ビルマが英国に植民地支配されている頃、英国人は学校を作りましたが、1920年の時点で学校数は90校で高等教育の場はラングーン大学(現ヤンゴン大学)とミッション系の大学しかなく、就学率はわずか4.9%でした。 仏印インドシナ(フランス領のベト…

日本のサムライと戦ったことは誇り

会田雄次著「アーロン収容所」では英軍兵士は日本兵捕虜と話しをするようなことはあまりなく、例外的に「日本人はこの敗戦をどう考えているか」「復讐をしないのか」(カタキウチという日本語を使って聞かれた)「なぜ武装解除に簡単に応じたか」と問いかけ…

日本軍側の暗号解読

大東亜戦争で日本軍の暗号は完全に解読されていた、それを日本軍は気づかなかった、という話を聞いたことがあるでしょう。ちょっとおかしいことに気づきます。日本軍は米軍の暗号解読しなかったの?こういう観点は抜けてますね。なにやら戦後のGHQなどに…

加藤隼戦闘隊 VS B24

大東亜戦争の日本軍のビルマ進攻は援蒋ルートのビルマルートの遮断が目的の一つにありました。これに成功すると、英米はヒマラヤ越えの空輸ルートしかなくなってしまいます。インパール作戦のもととなった二十一号作戦はこのヒマラヤルートの遮断に主眼をお…

加藤隼戦闘隊 VS フライングタイガース

フライングタイガースというのはアメリカ陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートがルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集めた航空部隊でアメリカの中立という立場から(義…

英霊は心ならずも命を落としたのではない

つわ者は今日も死にてあり菖蒲節 日本学芸新聞にある作家がこの句を載せたところ「人間親鸞」という本を書いた石丸梧平氏が怒って以下のように書きました。 「生死直面」石丸梧平 昭和15年3月(GHQ焚書図書開封3) 「今日も死にてあり」というのは、…

加藤隼戦闘隊

加藤健夫率いる加藤隼戦闘隊はシナ事変、ノモンハン事件、マレー戦、ビルマ戦で活躍しました。加藤部隊はシンガポール航空撃滅戦、ジャワ航空戦、ビルマ・ロイウィン攻撃では一旦出撃して一撃を与え、帰還すると直ぐ出撃して再攻撃するというピストン攻撃を…

日本人はマスターと呼ばれていた

ジャーナリスト高山正之氏はアジアハイウェー踏査隊としてアジア諸国を回ったとき、東南アジアでは日本人はおおむね白人扱いだったと述べています。ベトナムではこっちが日本人とわかると「マスター、マスター」と呼びかけてくれたといいます。1980年代…

日本人は人間の範疇ではなかった

会田雄次氏は1943年に応召しビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍。終戦でイギリス軍の捕虜となり1947年に復員するまでラングーンで拘留されました。このときの体験を「アーロン収容所」という本に残しています。 会田氏は部屋の清掃係となり、女兵舎の…

英軍の日本兵捕虜の虐殺

1944年(昭和19年)3月インパール作戦が発動されます。この頃は既に米国から英軍にM4戦車などの優秀な装備が手渡されており、日本の対戦車砲は歯が立たず、2ヶ月にわたる激戦の末、日本軍は撤退します。そしてここから英軍は日本軍を追撃していき…

銃後の心

「人間親鸞」という本を書いた石丸梧平氏のもとにわが子を失った両親が相談にくる話が西尾幹二著「GHQ焚書図書開封3」に載っていました。その両親の言葉をちょっと引用します。 「生死直面」石丸梧平 昭和15年3月 私の一人息子が戦死をいたしました。…

戦場の情景

西尾幹二著の「GHQ焚書図書開封」の中で芥川賞作家の火野葦平さんの著が紹介されており、いままで知らなかった戦場の情景を知ることができました。戦後語られている戦場というものは恐ろしいところで、悲惨極まりない、といったところだけ焦点が行きがち…

日本軍の現地徴発

以前、NNNが「兵士たちが記録した南京大虐殺」というのを放映していましたが、ひどい内容でした。その中で兵士が現地徴発を行ったと述べており、上海から南京へ向かう間にあたかも民間から略奪、強奪したかのように報じていました。実際に日本軍が現地徴…

世界で最高の文明国フランス?

1936年頃、フランスはベトナムのハノイ、サイゴンを文明のショーウィンドウにしようときれいな建物を建てます。ところが一歩裏通りに入ると、まるで流行遅れの古い建物でした。農民の1/3は土地が持てず、2/3は一畝(約300坪)前後の耕地しか持…

人権国家フランス?

1884年に起こった清仏戦争によりフランスは清の属国であったベトナムを奪います。この後、ベトナム人はフランスの高圧的態度に憤慨し、クーデターを起こしますが、フランス軍に鎮圧され、ベトナムの皇帝である咸宜帝(カンギてい)はアルジェリアに流さ…

マニフェスト・デスティニー

1898年、米国はスペインと戦争を起こします。キューバ、フィリピン、グアムが主な戦地になります。フィリピンは当時スペインの植民地で「独立させてやる」という米国の甘い言葉に乗ってスペイン軍と戦います。しかし、米国はフィリピンを植民地にしてし…

日本人は出っ歯で近眼

「日本人は出っ歯で近眼でチビ」・・・米国では大東亜戦争まで(もっと後も)はデフォルメして描いていましたが、軍事においても悪意で歪んで伝わっていたものがあります。軍事評論家のフレッチャー・プラット、「日本人は首が座る前から負ぶわれゆすられる…

支那軍の督戦隊

支那軍には督戦隊というのがあります。兵士の後方から「それ行け!」「やれ行け!」というより敵から退却してきた兵士を撃ち殺すのが主な役割です。 日本に留学していて支那へ帰国したら徴兵にとられてしまった陳登元君の記録にも督戦隊のことが書かれていま…

支那兵の蛮行

日本に留学していて支那へ帰国したら徴兵にとられてしまった陳登元君の記録です。陳登元君は記録の中では陳子明として三人称の主人公を設定して描いています。斥候(偵察のこと)に行ったときのことを書いています。 「敗走千里」陳登元著/別院一郎訳・教材…

支那軍の徴兵

日本に留学していた若い支那の陳登元という青年が祖国へ帰って兵隊にされて日本軍と戦いました。その記録を日本に送り、昭和13年に本になっています。その中に徴兵されたときの様子が書かれています。陳登元君は記録の中では陳子明として三人称の主人公を…

鳴門丸の奇跡の太平洋脱出

1941年(昭和16年)10月25日に鳴門丸という貨客船がメキシコシティを出航しています。最後の帰国船です(米への入港は拒否されている)。この年の7月には日本海軍は商船の引き上げを命令し、船団の編成を行っています。米国はパナマ運河を封鎖し…

真珠湾の朝

昭和18年4月に米のブレーク・クラークという人の著「真珠湾」が翻訳出版されています。戦時中に翻訳出版されていることにちょっと驚きますね。GHQ焚書図書開封より ふいに、ヤマトという日本人が駆け込んできた。 「飛行機が、えらく沢山やってきまし…

緊張が走る真珠湾

1941年(昭和16年)11月26日ハル・ノートは事実上の最後通告であり、開戦が決定づけられました。この年の1月24日の時点ですでに米海軍長官のノックスは陸軍長官のスティムソンに「日米開戦は必至」と伝えており、「そのとき日本側は必ず真珠湾…

「日本人は生存に値しない」ハル・ノート

1941年11月26日、8ヶ月にわたる日米交渉の末、突然提示されたのはハル・ノートでした。このノートを書いたのはハリー・D・ホワイトという財務長官補佐でソ連NKVD(後のKGB)の展開した「雪工作」の対象者です。1948年7月末に下院の非…