鳴門丸の奇跡の太平洋脱出

 1941年(昭和16年)10月25日に鳴門丸という貨客船がメキシコシティを出航しています。最後の帰国船です(米への入港は拒否されている)。この年の7月には日本海軍は商船の引き上げを命令し、船団の編成を行っています。米国はパナマ運河を封鎖し、在米資産を凍結しています。10月にメキシコ湾をまだ商船がうろうろしていたなんて驚きです。最後の船なので押し合いへし合いで日本人は乗り込みました。
 余談ですが、開戦後は交換船というのがあり、米にいる日本人、日本にいる米国人は船で東アフリカの港にいき、人を交換して祖国に帰っています。東アフリカの港でハーバート・ノーマン都留重人が再会しています。(共産主義者日本国憲法の仕掛け人)

 鳴門丸はチリで18日かかって荷物を積み込み南米大陸に沿って少し北上し、11月30日に大陸を離れています。1週間後に戦争が始まることなんか知りません。サンフランシスコ〜ホノルルの中間というコースを通ります。真珠湾アメリカ大陸の間を抜けていくわけです。航行中に日米開戦となります。

開戦 太平洋脱出記 四至本八郎 青磁社 昭和17年5月(GHQ焚書図書開封3より)
四至本八郎の体験の著

 午前十一時、にわかに銅鑼(どら)が乱打された。
 そらっ来たと思って直ちに救命袋を付け始めると、甲板で怒鳴っている。
 「敵艦が見えたぞ!」
 どきんと肝っ玉に来た。
 傍らで救命胴衣をつけているT君を見て、
 「いよいよ本物が来たらしいね」
 「もう最後ですね」
 二人はなんとも言い知れぬ沈痛な顔をする。

 覚悟を決めたんですね。しかし、これは誤報でした。

 危機が迫って明日をも知れぬ命だと云うことになると、人間というものは馬鹿にセンチメンタルになるものだ。無闇と怒ってみたり、面白くもないのにゲラゲラと笑ってみたりする。全く常識を失った感情が見られるものだ。
 一寸したことで、ボーイを怒鳴りつけたり、下らぬ質問を船長にもちかけたり、実に精神的の百鬼夜行だ。
 死に臨んでも、危険に曝されても、泰然自若としていると云うことは実際においては、相当日ごろから修養を要することだと、今度つくづくと思わされた。
 ただ、僕は何らかしら「必ず助かるのだ」と云う信念が始めから放れなかったのだ。甲板を見張りながら散歩中の船長をとらえて此のことを話すと、船長も、
「私もこれで二度目の遭難だが、今度も何かしら、助かるという信念を抱いています」と語った。
 だが、こんな話の中にも、目の前に展開されている大浪、小浪が敵の潜水艦でないよう、又大空に散っている怪雲が敵機でないよう、心から祈られてならなかった。

 死を意識した心情がよくつづられているし、客観的に観察しているところがすごいですね。船長も気丈です。さすがです。
 鳴門丸は船体を灰色(青よりも灰のほうが発見されにくい)に塗りなおし、無線封鎖を続け奇跡的に敵に発見されることなく、無事帰ることができました。実際に、真珠湾攻撃の被害調査にいったノックス海軍長官の飛行機と同時間に同海域を通過していたのに発見されなかったのは奇跡でした。
 ところが横浜の港に着いて奇跡の生還をしたのに迎えの人も報道機関も誰もいない。無線封鎖して国内の呼びかけに応答しなかったため、もうダメだ、と思われて皆諦めてしまっていたのでした。

 商船の乗客乗員はすべて死ぬ覚悟をしていました。著者の死を意識した心情らが当時の日本人民間人の心を映し出しています。ドラマか映画にできそうな話ですが、こういう話が焚書されてわからなくなってしまっているのは残念なことです。


参考文献
 「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二
 「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット著
 「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子著

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