銃後の心


 「人間親鸞」という本を書いた石丸梧平氏のもとにわが子を失った両親が相談にくる話が西尾幹二著「GHQ焚書図書開封3」に載っていました。その両親の言葉をちょっと引用します。


「生死直面」石丸梧平 昭和15年3月



 私の一人息子が戦死をいたしました。悲しみのどん底に居ります。毎日毎夜眠ることもできません。このままいれば気狂いになりそうでございます。死にたいが死ぬこともできません。静岡県の山の中から参りました。先生にご相談願いたいためにまいりました。

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 世間の人はいろいろ慰めてくれませうが、今では慰めの言葉を聴くのがいやになりました。理屈はよくわかっております。決して負け惜しみではなく、心から明(息子の名前)の戦病死を光栄とし、いささかでもお国のためになったことを喜んでいるのでございますが、それだのに、どうしても愛のきづなを断ち切ることができません。切りたいのです。それが切れません。夜も殆ど眠ることが出来ません。一時間も眠っていないかと思います。

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 子を育てていた二十余年間は幸福な生活でございました。そのあとに、こうして青天の霹靂です。悲しみのどん底に落ちました。今では死ぬのが一番幸福のように思います。しかしそれは感情で、私の理性は明の死を満足に思うております。けれども、今日の私はただ苦しいのです。理屈なくただ苦しいのです。


 私は広島でしたから子供の頃、「はだしのゲン」というマンガを読んだことがあります。この中で、戦死(と聞かされた)した兵士の両親がニコニコして「名誉の戦死だった」と言っているのをゲンの兄だったかが「自分の息子が死んだというのに狂っている」と述べていたと記憶しています。狂ってなんかいませんよ。石丸梧平氏のところに相談にきた両親の気持ちが本当のところだと思います。名誉の戦死、お国のために役に立ったとして受け入れ、悲しみを乗り越え、気を保とうとがんばっているのです。
 お葬式を思い浮かべると、弔問客は遺族に対して故人の生前の立派だったことを話しますよね。悲しむ遺族も気を保とうとします。母から教わりましたが、お葬式は遺族のためにあるんですね。変わらない話でしょう。

 少年兵として召集がかかり、出征当日、駅まで家族が送りにいく、という話を広島に居た頃、学校で教わった記憶があります。それまで日の丸を振って「お国のためにがんばれ」調だった母親が急に涙を流し息子にすがったのを、見ていた人がニヤニヤと笑っていた、しかし次の瞬間母親はまた「お国のためにがんばれ」調に戻った、というものです。これも戦時中は狂っていた話のように教えられました。今思えば別に狂ってなんか居ません。母親としては悲しいけれど気丈に見せなければ息子が後ろ髪引かれる思いで、軍隊へいくことになります。普通の心です。

 普通の心を普通に見れない戦後こそ狂っているのではないでしょうか。



参考文献
 「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二

添付画像
 銃後の女性郵便配達員 毎日新聞社「一億人の昭和史 銃後の戦史」(PD)


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